むかし ばなし孝行犬(こうこういぬ)の話三島市芝本町に圓明寺(えんみょうじ)というお寺があります。 この寺には孝行犬の墓があり、庭には犬の像があります。この犬にまつわる話は、圓明寺の第37代の住職、日空(にっくう)上人(しょうにん)のころにさかのぼります。 昔、この寺の本堂の床下に母犬と5匹の子犬が住んでいました。母犬は老犬でしたが、番犬としてよく働き、時には町へ出かけ、残飯をもらったりして人々に可愛がられていました。子犬たちもまた町の人気者でした。 本堂の床下には、病気で弱った母犬が寝ていました。別の2匹の子犬が、その母犬に寄り添って体を温め、町から食べ物を運んできた子犬は、母犬の口元にそれを置き、食べさせようとクンクン鳴いていました。それぞれに役割を分担して、病気の母を養っている子犬たちの姿に感動した町の人たちは、それからは交替で食べ物を運んであげました。 しかし、弱った母犬は、暑い夏を越すことができず死んでしまいました。4匹の子犬たちは、三日三晩そのそばを離れず悲しみました。4日目に2匹がなきがらに付き添い、もう2匹が穴を掘り4匹で母犬を運んで埋葬(まいそう)しました。 こうした子犬たちの姿を見た日空上人は、動物とは言え「人間の手本」と感心し、塔を建てて供養(くよう)してやりました。 しかし、その後、子犬たちも2年くらいの間に相次いで死んでしまいました。最後の犬が死んだ文久2年(1862)8月24日、上人は母子6匹の犬のために墓石を建て、それぞれの名前と命日を刻(きざ)んで、母子の情と孝行心をたたえ、世の人々の教えとしました。 出典 『続 三島の昔話』p.19、『グローバル草紙』p.30 妻塚(さいづか)
東本町1丁目に妻塚と言われる祠(ほこら)があります。 妻塚観音堂(かんのんどう)です。これは、平家(へいけ)一族である大庭景親(おおばかげちか)の妻が祀(まつら)られた祠だと言われています。 源氏(げんじ)再興を願い三嶋大社に通う源頼朝(みなもとのよりとも)をつけねらっていた大庭景親は、ある日夕闇の中に人影を見つけ、源頼朝と思い、斬(き)り殺しました。 しかし、よく見ると斬り殺した相手は、頼朝ではなく自分の妻でした。妻は、源氏に縁がある家に生まれたため、夫景親を思い止まらせようとして、密かに夫を待ち受けていたのでした。 妻を斬ってしまった景親は、悔恨(かいこん)も及ばず、妻の冥福(めいふく)を祈るためにこの祠を建てたと言われています。 不思議な観音様(かんのんさま)これは三島の旧北上村(きたうえむら)(現、北上地区)に伝わる昔話です。 むかし、むかし、壱町田(いっちょうだ)のある作男(さくおとこ)が、馬を連れて箱根の山へ草刈りに出掛けました。途中、箱根山中の小沢(こざわ)付近を通りかかったとき、急におなかが痛くなりました。差し込むように痛く、1歩も動けなくなりました。このままでは草を刈って帰ることができません。大変困ってふと道端を見ると、観音様の姿が目に入りました。そこで、藁(わら)をもつかむ思いで「観音様、観音様、今日中に草を刈って持ち帰らなくてはなりません。どうぞ、お助けください」と、必死に祈り続けました。 しばらくして、ふと目を上げると、1束の草が馬に付いているではありませんか。そして、おなかの痛いのもいつの間にか治(なお)っていました。男は観音様が願いを叶(かな)えてくれたと思い、大喜びでお礼を言って帰りました。 ところが、これに味をしめた男は、翌日もまた観音様に頼みました。しかし、今度は観音様の助けはありませんでした。怒った男は観音様を蹴飛(けと)ばして家にもどりました。 それから間もなく、観音様の姿は消えてしまったのです。小沢の人びとは恐れ、あちらこちらを捜(さが)しましたが、それっきり行方(ゆくえ)が分からなくなってしまったそうです。 鼻(はな)とり地蔵(じぞう)
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大場の久八の墓 |
江戸時代末期の渡世人(とせいにん)(注1)「大場の久八」は、文化11年(1814)函南町生まれ、本名、森久治郎といいます。剣術、知識に優れており、任侠(にんきょう)(注2)人でありながら心の広い慈善家でした。
韮山代官江川太郎左衛門(たろうざえもん)の大事業である品川沖お台場の土盛(ども)りを、自ら指揮し2,000人の人足を集め6カ月で竣工(しゅんこう)させました。また、安政元年(1854)東海地方を襲った大地震のときは、直ちに兄弟分の大前田英五郎を通じ各地より義援金を募り、奉行所(ぶぎょうしょ)の許可をとり被災者に公平に分配したそうです。さらに三宅島島民の困窮(こんきゅう)を聞きお金を融通したり、伊豆沖で難破したロシア軍艦ディアナ号の乗組員を援助したりしました。
明治になってからは渡世人(とせいにん)稼業(かぎょう)から足を洗って、東京芝増上寺で修行に励みました。その態度がよほど良かったのでしょう。帰郷にあたって「信礼院義誉智仁徳善居士(しんれいいんぎよちじんとくぜんこじ)」という大変な号を送られています。この戒名(かいみょう)を刻んだ彼の墓が伊豆箱根鉄道の大場駅に近い広渡寺(こうどじ)(函南町間宮)にあります。
「久八爺さんは快足の持ち主で1日40里(約160km)は平気で歩いていた。朝食後家を出ると夕方には江戸へ着いていた」とお孫さんは話していたそうです。
(注1) 無職渡世の人の意で博打(ばくち)打ち、やくざのこと
(注2) 弱きを助け、強きをくじく気性に富むこと。また、その人
出典 『伊豆史談』p.35、みしまネットクラブHP、WEB MAGAZINE みしま
むかし、大阪京橋の呉服商の堺屋十郎兵衛が、家出して行方不明の息子、喜六を捜すために旅に出たのは、安永(あんえい)年間のことでした。たまたま、大津の宿で、それらしい男が箱根で雲助(くもすけ)をしているという噂(うわさ)を聞き、まず三島を訪れ、雲助の立ち回り先や、問屋場など捜(さが)してみましたが、息子を見つけることはできませんでした。
そこで、次の目当ての箱根宿に向って街道筋の立場(たてば)(注1)や、往来の雲助の顔をのぞきながら、ようやく箱根峠近くまでたどり着くと、もう日も暮れかけていました。
ちょうどそのとき、運悪く持病の脚気(かっけ)(注2)に襲われたのです。持っていた薬を口にする間もなくそこに倒れ、息も絶えるほど苦しんでいました。すると、たまたまそこを通りかかったのが息子の喜六でした。しかし、まさかこの息も絶え絶えに苦しんでいる老人が、自分の父親だとは夢にも思いませんでした。思わず駆け寄って抱き起こしてみましたが、もはや手の施(ほどこ)しようもない状態でした。仕方なく石畳の上に寝かせたとき、老人の懐(ふところ)からずしりと重い財布が抜け落ちました。
辺りはもう既に薄暗くなり、どこにも人影は見えませんでした。それで、つい魔が差した喜六は老人の腰の道中差(どうちゅうざし)を抜いて、一気に老人の息の根を止め、金を奪って一目散に坂を駆け降りました。
革財布の中の7両2分の大金(注3)に、一度は喜んだ喜六でしたが、財布の底にあった名札からその老人が自分の父親であったことが分かり、びっくり仰天しました。彼は一目散に引き返して、死骸に取りすがり、泣いて詫びましたが、すべては後の祭りでした。
哀れな喜六が、この事実を書き置きとし、山中新田の宋閑寺((そう)かんじ)で、同じ刃(やいば)で自害したのはその翌朝のことでした。
現在あるこの地蔵尊碑は、土地の人々が、この親子のこの上ない不幸な巡り合わせに同情し、2人の冥福(めいふく)を祈って建てたものです。
(注1) 街道などで人夫(雲助など)が駕籠(かご)などをとめて休息する所
(注2) ビタミンB1の欠乏症。末梢神経をおかして足がだるくなるとか、ひどくなると心不全などを起こす。
(注3) 現在の価額に換算すると約56万円と思われます。
→ 雲助
出典 『三島の昔話』p.180
山中新田(箱根西坂)の東、杉の大木の近くに、盃(さかずき)と徳利(とっくり)を彫った墓があります。この墓の主は、松谷久四郎、俗称久助という人で、なかなか立派な家の出であったそうです。一説には武家の生まれとも言われ、相当な
器量人(きりょうじん)であったようです。 しかし、どのような理由からか一生を雲助で終わりました。
日ごろ、久助は頭役(かしらやく)となって仲間の取り締まりをしていましたが、
身銭(みぜに)を切ってでも 困窮(こんきゅう)の者や若者のめんどうをみてやりました。これは、雲助にだけのことではなく、東海道筋の百姓に対しても同じでした。
ことに、往来の悪者に 難癖(なんくせ)をつけられて弱り切っている者を、身をもってかばってくれました。したがって、仲間の者からも、また、街道沿い
の百姓、商人からも厚い信頼を受けていたのです。彼は終生、酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終わったと言われています。その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって作られたのが、通称「雲助徳利の墓」といわれるこの墓なのです。
石碑の前面に、大きく盃と徳利を 浮彫( うきぼり)にして、 全体にしゃれた 趣(おもむき)を 漂(ただよ)わせたこの墓は、彼の人柄 を良く表現しています。往年は、
香華( こうげ)の煙の絶えることがなかったと言われています。
→ 雲助
出典 『三島の昔話』p.192
忠臣蔵(注1)のお話の1つで、舞台は江戸時代の三島です。
元禄14年(1701)9月、大高源吾が進藤源四郎とともに同志との連絡の任務を帯びて江戸へ向かっている途中、伊豆三島宿問屋場(現、三島市役所中央町別館)でのできごとです。
雑踏の中で荷づくろいしていた馬に源吾の刀の鞘(さや)がふれ、馬が驚いてはね上がり積んでいた荷物を落としました。この馬子(まご)は名うての悪漢国蔵(くにぞう)という者だったので、たちまち源吾の前に立ちふさがり「おいおい、お武家、何の意趣があって大事な預かりものを壊したか、もとの通りにして返せばよし、さもなくば許さない」と、もっての外の難題を吹きかけました。
身に大事を抱いている源吾は種々詫入(わびい)れしましたが聞き入れられず、こちらが 下手に出れば出るほど、国蔵がなおつけ上がり、ますます雑言(ぞうごん)を吐き散らすのにほとほと閉口してしまいました。亡き主人浅野
内匠頭(たく みのかみ)が 定宿(じょうやど)としていた世古本陣の手代が仲裁に入ると、「それならば詫証文と酒代をよこせ」と口を切ったので、源吾はそれを聞いて「それはいと易いことである。よしよし一札を書いて
遺(つか)わさん」とその場で詫状を書き、 金子(きんす)(注2)2両を添えて差し出すと、国蔵は詫状には目もくれず金子だけ持って立ち去りました。
この詫状が今に伝わり三嶋大社 宝物館(ほうもつかん)に所蔵されています。
なお、同様の昔話が箱根畑宿(はたじゅく)にも伝わっています。
出典 『三島市誌 下巻』p.961、『三島市誌 中巻』p.454、 『三島の昔話』p.112
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