郷土史軽部慈恩(かるべじおん)
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『豆州志稿』は13巻から成り、江戸時代の伊豆国全土の地理、地形、里程、村落、川、さらに天災地変などが詳細に記録されています。原本は三島市指定文化財で、三島市郷土資料館の3階に展示してあります。現在でも研究者必携の書となっています。
→ 並河五一、伊豆国代官
出典 『史話と伝説 伊豆・箱根』p.591、『郷土の発展につくした人々 下巻』p.16、『群像いず』p.216
伊豆史談会は、新聞記者として三島に派遣された戸羽山瀚(とばやまかん、又はひろし)が、伊豆に埋もれた歴史的事実とその価値の多さに着目し、郷土研究を志して仁田大八郎などの協賛を得て、昭和5年(1930)結成された郷土史研究会です。
冊子「伊豆史談」は、昭和9年(1934)11月に創刊号を発行し、その後戦争中の紙不足を理由とした官権(かんけん)(注)による停止処分期間を除き、今日まで継続されています。
戦後は郷土史が各地に普及したため、当会の研究も三島史関係が主体となりました。三嶋大社宮司・矢田部盛枝、原勝治が会長を務めた後、戸羽山瀚、長倉(ながくら)慶昌(けいしょう)、沼上(ぬまがみ)城山(じょうざん)が順に会長となり、三島の歴史研究に果たした功績は大きいものがあります。
平成12年(2000)現在、会員85名を擁(よう)し、研究発表、歴史探訪、あるいは研究誌発行など、自主活動を続けています。
(注)政府や官吏の権力、権限
明治40年(1907)、元旗本、鈴木安吉、ひさの長男として東京で生まれ、幼少時代を静岡・清水両市で過ごしました。本名は鈴木良雄。後に、藤池はなと結婚して姓が藤池に変わりました。戸羽山 瀚はペンネームです。(注)
早稲田大学で江戸文学、幕末史を専攻、江戸学の大家三田村鳶魚(えんぎょ)、小説家・劇作家の長谷川伸(しん)あるいは子母沢寛(しもざわかん)などに師事し交遊がありました。
朝日新聞記者として三島に派遣されたとき、伊豆が歴史的に未開の宝庫であることに強く魅せられ、その解明に心を引かれて、他に転任を命じられたとき、かたく辞して三島に居を定めることに決めました。
埋もれた郷土史開発の必要性を説き、多くの名士の賛同を得て、昭和5年(1930)6月に「伊豆史談会」を結成し、同9年(1934)11月から機関紙『郷土史』を発行。自ら編集発行人となっています。昭和12年(1937)には『伊豆史談』と改題、戦時下の物資不足、あるいは財政困難を乗り越えながら、機関紙の発行を続けました。
こうしたなかで、郷土史研究の手は休むことなく、多数の著作、論文を残しました。なかでも『江川坦庵全集』は、同氏が江川坦庵研究の第一人者として高く評価されるきっかけとなったものです。
また、『三島市誌』編纂、執筆あるいは郷土資料館建設など、三島の文化発展に大きく貢献しました。
(注) ペンネーム戸羽山 瀚は、時代により、かん、ひろしの両方の読み方を使用した。
北上地区には、縄文、弥生時代の石器や土器が数多く点在し、また古墳が多数あります。3,000年以上前から先人たちが住んでいながら、これにまつわる史実を研究した資料が皆無に等しいことから、こうした歴史を後世に伝えるべく昭和56年(1981)4月北上郷土史研究会が発足しました。
会員数30余名すべてが素人(しろうと)でありながら、毎月1回の定例会をもとに活動を進め、古文書(こもんじょ)の目録作りから始めました。昭和58年(1983)には『北上古文書』を発刊し、また昭和62年(1987)には三島市教育委員会発行の『三島用水史』刊行にも積極的に参画しました。
こうした日常の活動を通じて知り得たことの積み重ねにより、平成元年(1989)10月に、『北上郷土史・物語・伝説』を発刊しました。
戦後の開発ブームで箱根西麓の変貌は著しく、人口が急増していますが、こうした状況の中で、ふるさと意識の高揚のために活動を続けています。
錦田郷土史研究会は、昭和56年(1981)に錦田公民館の開設を機に発足しました。
錦田地区は、江戸時代、君沢郡の内、谷田村ほか4カ村と坂5カ新田が、明治22年(1889)の市町村制の施行により、新しく錦田村として発足した地区です。
この地区は、東海道が真ん中を通っており、街道にまつわるものをはじめ、史跡や物語などを多く伝えています。これらをたどり、学び、地域への認識を深めるとともに、埋もれているものを掘り起こし、郷土史の資料として残していこうと、有志により結成された会です。会員は平成12年(2000)現在6人で、月1回の会合をしています。
今までの調査研究の成果として『三島の城跡』『中村誌稿』『谷田山沿革史と谷田郷の地名について』などを刊行し、三島市立図書館などに寄贈しています。また、地域婦人部が行う史跡見学の案内や、郷土史研究の助言なども行っています。
本会は昭和48年(1973)6月に有志数人の発起によって結成し、主に梅名の集落発生から神社仏閣などまで、地域の史跡を掘り起こして保存し、梅名の人たちに紹介しようと発足しました。
梅名の古地図(こちず)を元にして、地名や故事来歴、神社・仏閣の棟札(むなふだ)などから、創設当時を類推(るいすい)しようと始めました。当時、上作道(かみつくりみち)、下作道(しもつくりみち)の遺跡が発掘されたのを契機に、毎月1回、郷土史に関心を持つ人なら誰でも参加できるようにして、会合を持ちました。
「梅名七免八坪(うめなしちめんやつぼ)」「惣連名覚帳(そうれんなおぼえがき)」「定助郷(じょうすけごう)」「三島囃子(みしまばやし)調査」「家名」「在庁道(ざいちょうどう)の由来」などを追求解明し、史跡には石の碑を建てて保存顕彰に努めました。
昭和50年(1975)に『梅名史誌』第1巻を発刊、続いて平成10年(1998)に第2、3、4巻を刊行し、地区内の史跡巡り、史跡碑の建立などを続けて現在に至っています。
この間、碑の建立作業などには会員総出で奉仕作業を行いました。今後は史誌第5巻の発刊も企画しています。平成12年(2000)現在、会員は14名です。
明治100年を記念して、大場誌発行の調査委員会が、昭和43年(1968)6名の委員で発足しました。これが大場における郷土史研究の入り口となりました。
まず、調査委員の祖父にあたる年代(明治初期生まれ)の人々からの知識を収集するなど、資料集めから始めました。発足以来述べ270余回の集まりの結果を、昭和57年(1982)3月に『委員会の歩み』としてまとめました。これをベースとして三島市の支援もあり、平成12年(2000)2月『大場誌』の発刊に至りました。
序章「ふるさとの歴史への誘(いざな)い」から始まる『大場誌』は、先人たちのたくましい生き方、融和・協調の心、経済・文化の中心として大きな影響を保持してきた大場の先進性などが綴られ、新たなふるさとづくりの礎(いしずえ)となること、および読者に郷土の歴史に興味と関心を持ってもらうことなどが期待されています。
現在はこの大場誌をさらに充実したものにするため、増補版の作成にとりかかっています。
この研究会は、坂地区の庶民生活を主題として、会員13名(発足当時)が自主的にテーマを持ち、研究発表し合う中で、名実ともに発展することを期し、平成元年(1989)に発足しました。
初テーマは「箱根西麓の農業機械の移り変わり」として、生活の基盤となる農業の変遷の写真集を作りました。また、衣食住の中の食に焦点を置き、昔の食生活を体験してみようと、アワ、キビ、陸稲(りくとう)(注)の栽培、試食などをして昔をしのび、30年ぶりにソバ作りに挑戦するなどしました。
今では子供、老人がともに参加するなど、特に子供がこうした活動になじむ環境作りにも取り組んでいます。念願の郷土史『郷土のあゆみ』第1巻を平成7年(1995)2月に発刊しました。
最近の活動の主なものは、昔、地区全体の畑につけられた字名(あざめい)を、一枚残らず調査する作業や、坂地区の多くの方言を記憶すべく、書き残す作業を進めたりして、将来への財産作りに意欲的に取り組んでいます。現在、毎週1回会合がもたれ、研究発表、意見交換をして活発に活動しています。
(注)水田でなく畑で栽培する稲。おかぼともいう。
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