妙法華寺の文化財絹本著色日蓮上人像(けんぽんちゃくしょくにちれんしょうにんぞう)
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出典 『三島市誌 増補』p.194
日蓮宗の開祖である日蓮の数多い著作の中でも3番目の長編で『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』『歓心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』とともに、代表作の1つに数えられています。『撰時抄』には訂正、書き直しが極めて多く、日蓮苦心ののあとがうかがえます。
『注 法華経10巻』は、叡山(えいざん)版『法華経10巻』に日蓮が注釈(ちゅうしゃく)を加えたものです。日蓮は260種類以上もの経文、経書から学んだ知識を法華経の料紙の上に細かく記入しました。
弘安5年(1282)10月に日蓮が61歳で入滅(にゅうめつ)(注1)する3日前に、高弟(こうてい)(注2)であり、妙法華寺の開山僧の日昭上人(注3)に譲与されたものです。
(注1)聖者、僧などが死ぬこと。
(注2)弟子の中でも優れた弟子。
(注3)日蓮より1年年長の叡山の優れた学僧。
出典 『註 法華経』、『三島市誌 上巻・増補』
日蓮宗が起こってからしばらく後、文字曼荼羅(まんだら)(注)以外に、このような技工の整備した絵曼荼羅は数少なく、日蓮宗発展の跡を知る資料となるばかりではなく、仏教図像の研究からも高く評価されています。制作年代は、鎌倉時代末期と推定されていて、迷いや悟りの世界である十界を表現したものです。
(注)サンスクリット(梵語(ぼんご))の音訳で、諸菩薩、神仏や諸尊を布列したもの
出典 『三島市誌 増補』p.967
本堂に安置されている金剛力士像は、鎌倉時代に仏師湛慶(たんけい)によって作られたと伝えられています。阿形像(あぎょうぞう)と吽形像(うんぎょうぞう)が対(つい)で置かれています。合わせて「阿吽(あうん)」となり、人の一生が表現されています。像は乾漆像(かんしつぞう)です。檜(ひのき)材の寄木造りで眼は玉眼、高さは約250cmで、両像とも頭に髻(もとどり)を付けています。勇壮で筋肉質の健康美を感じさせる像の強さにあやかり、足腰の回復を願い、履き物を供えて祈願をします。古くは、像の足に合う大きさの草鞋(わらじ)を供えたそうです。
出典 『三島市誌 増補』p.1152
庫裡とは寺院の台所のことです。妙法華寺の庫裡は寛政3年(1791)の火災で焼失し、寛政5年(1793)に再建されたものです。
庫裡には、かまどがある土間、板の間といくつかの室があり、県内でも最も完備された姿で残っているものです。
出典 『三島市誌 増補』p.1091
この鐘つき堂は入母屋(いりもや)造り(注1)、桟瓦葦(さんがわらあし)ぶき(注2)で、袴腰(はかまごし)(注3)付きです。全体に後世の補修の後が見られますが、中世の建築様式と伽藍(がらん)配置などを知る上で重要なものです。
創建年代は不明です。寛政3年(1791)の火災で妙法華寺の建物はほとんど焼失しましたが、鐘楼は主要伽藍と離れていたため類焼をまぬかれました。
(註1)上部が2方へ傾斜し、下部が4方へ傾斜する屋根 を持つ建物。
(注2)方形で中央が谷になった波状の瓦、(一般の瓦)。
(注3)写真の第1層のように柱を袴のようにおおう。
出典 『三島市誌 上巻・増補』、『妙法華寺調査報告』
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