行事と郷土食おちつきぼた餅(もち)結婚式の翌日または、新婚旅行から帰ると、近所や親戚などの、結婚式に呼べなかった人を家に招き、その家に来た嫁として新婦を紹介します。そのときにぼた餅を振舞(ふるま)うのでこの行事を、おちつきぼた餅といいます。 最近では、料亭やホテルで行うことも多く、そのときは、ぼた餅を土産に付けたりもするそうです。この風習は全国に広くあったようですが、現在でも行う家庭があるというのも、伝統を大切にする三島ならではでしょう。
葬式(そうしき)近所で人が亡くなると、隣組が手伝って葬式を出しました。葬式は残された家族を支えるために、お金をかけずに質素にしました。もらった香典(こうでん)で家族が四十九(注1)日まで生活できるように香典(こうでん)返しも最小限にとどめました。 近所で持ち寄って塩餡(あん)入りのお餅を搗(つ)いたり、死者が友を呼ばないようにと、ネギを入れない豆腐だけの味噌汁(みそしる)を作ったものです。 葬式の、浜降(はまおり)(注2)、精進(しょうじん)落(おと)し(注3)などを行い、葬式を手伝った人たちは、握(にぎ)りこぶしの上に、ご馳走(ちそう)を乗せてもらい、茶碗酒(ちゃわんざけ)を冷(ひや)で飲み「精進」をします。 (注1) 人の死後49日間のこと、前世までの報いが定まり、次に生まれ変るまでの期間 (注2) 浜辺や河岸で禊をすること (注3) 精進の期間が終って肉食すること
塩ぼた餅(もち)笹原地区では仏事のときには、大きな塩ぼた餅を作ります。周りのアンコが塩味のぼた餅で小皿に入れた砂糖を付けながら食べます。 片粥(かたがゆ)はいけない正月が来ると、7日には七草粥(ななくさがゆ)、15日の小正月(こしょうがつ)には小豆粥(あずきがゆ)を食べます。嫁いだ娘が小正月に里帰りをすると、母親は娘に「七草粥は食べたかい?」と聞き、もし嫁ぎ先で食べていなければ「片粥は縁起がよくない」と言い、小豆粥は食べさせてくれませんでした。
ドンドン焼きの日
塚原地区では、1月14日のドンドン焼きのときには、父親が、幹(みき)がこぶのようになっていて枝がつんつんと出ている木を切ってきます。米の粉を蒸して、その家で生産しているナスやキュウリなどの農作物や、お茶を作っている家は、お茶の缶などの形、普通の団子などを作り色粉で赤、緑などの色を付け、つんつんと出ている枝に刺し、さらに、同じ材料で米俵を何俵も積んだ船形を作り木の上に飾ります。 それを注連縄(しめなわ)を張ったり、お飾りを付けて、土間に逆さに置いてある臼に飾ります。それらが硬くなってきたころ、囲炉裏(いろり)の灰の中に埋めてやわらかくし、自家製の金山寺(きんざんじ)みそを付けたり、甘辛く煮たりして食べました。美味しいおやつでした。 出典 『三島市誌 増補』p.873初午(はつうま)2月の節分後迎える初の午の日が初午です。古くから稲荷(いなり)信仰しんこう)と結びつき稲荷の祭日とすることが多いと言われています。子どものいる家では子どもの名前を幟旗(のぼりばた)に書き、お稲荷さんのある家にお参りに行きます。お赤飯のおにぎりやキャラメルなどをくれる家もありました。
おえべっさん毎年11月23日は「えびす講(こう)」です。この日は商売をしている家にとっては大切な行事の日です。いつも神棚に飾ってある「恵比寿神(えびすしん)」と「大黒神(だいこくしん)」を蔵ごと下に降ろし、きれいに磨き上げます。 テーブルの上の上座に据え、お蔵の上に大根の葉を縄で縛ってぶっちがい(たがいちがい)に組み、ご馳走(ちそう)を供えてお祀(まつ)りします。赤飯、刺身、酢の物、野菜の煮物などですが、地方によっては商品やお金も供えて商売繁盛をお願いします。 職人の給料が30円の時代に2円ものご祝儀をもらい、ご馳走も振る舞われたので、職人たちは皆とても楽しみにしていました。
ほうそう饅頭(まんじゅう)種痘(しゅとう)がおこなわれる以前(天然痘(てんねんとう)の予防に日本で種痘がおこなわれるようになったのは、嘉永2年(1849)ころから)、天然痘は子供には大きな厄病(やくびょう)でした。 子供が種痘を受けて“ほうそう”がついた(免疫体になる)ときには、子供の神様とされている道路の辻などのサイの神に、饅頭の頭に紅をつけた“ほうそう饅頭”を桟俵(さんだわら)(米俵の両端にある丸い藁製(わらせいのふた)に3個のせ、弊束(へいそく)(神祭用具の1つ。白色または金銀五色の紙を細長い木に挟んだもの)を立てて、お供えする習わしがありました。 ご馳走(ごちそう)塚原を下りたところに山田川があります。この川でヤマメやウグイ、たまにはウナギなどもとれました。真っ黒なズガニがとれる季節になると、叩(たた)いてつぶしてカニ汁にしました。 また、山で大きな蜂の巣を収穫したときには、子供たちまで手伝って、針で巣を突(つつ)いて蜂の幼虫を出し、甘辛く煮付けて炊き込みご飯にしました。 いずれもとてもおいしく、参加した組の人たちと皆で分け合って食べたものです。 魚の行商(ぎょうしょう)さん坂、塚原地区などでも、三島から魚屋さんがサバやシラスなどを売りに来ました。「今日はサバが安いよ〜」と、鐘をチリンチリン鳴らしながらやって来ました。 また、町中の茅町(現、加屋町)には、由比(ゆい)から東海道線でシラスやサクラエビを風呂敷に包み背負って行商に来る人がいました。サクラエビの卵とじなど懐(なつ)かしい料理です。お昼ごろに来るとお得意さんの台所でご飯を食べていくこともあったそうです。 箱根沢庵(たくあん)戦中は軍の保存食用として満州国駐在の関東軍司令部に納入し、生産面積も増えました。特に軍隊用には重視されていたので、1本当たり2〜4kgの大型大根を干す光景は三島の冬の風物詩として有名でした。 戦後、関西市場への出荷が始まり、最盛期には1シーズン3,000〜4,000樽にもなりました。昭和33年(1958)には、全国漬け物品評会にて農林水産大臣賞を受賞しました。 しかし、昭和50年代に入り食の洋風化が進み、生産量、消費量ともに減少しました。現在では、農家の自家用分と近隣観光旅館への納品分(のうひんぶん)を残すのみとなりました。漬け込んだものは、1樽70kgほどの重さになります。
出典 『みしま梅花藻の里』『三島市誌 増補』 協力 高沢辰美さん、峰岸礼子さん
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