江戸時代の食
樋口家(ひぐちけ)の本陣料理(ほんじんりょうり)三島宿の樋口本陣には、幕府や諸藩(しょはん)の武士、公家、僧侶たちが宿泊しましたが、当時の様子を伝える文書に、文化15年(1818)に本陣家当主樋口傳左エ門が提出した本陣献立(こんだて)があります。 それによると、献立は朝食と夕食の二通りあり、朝食は「石焼き豆腐、お新香(しんこ)、汁、飯」の一汁(いちじゅう)一菜(いっさい)、夕食は「魚の煮付け、ワラビ、凍(こお)りこんにゃく、芋(いも)、昆布(こんぶ)の煮つけ、汁、飯」の一汁二菜となっていました。ただしこの料理は、誰のためのものかは明らかではありません。献立内容からみても、それ程高位の身分の人のためではなかったようにも思われます。 平成4年(1992)7月、北上婦人学級くらしのサロンにより再現されました。「石焼き豆腐、凍りこんにゃく」は調理方法が伝えられていなく、苦心の結果、石焼き豆腐はフライパンで作り、凍りこんにゃくは、なんとか再現できました。 出典 『郷土館だより 通巻第19号、43号』 山中新田(やまなかしんでん)の宿・お休み処(どころ)
|
てなし大まんじゅうの名前の由来は古く、源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆蛭(ひる)ヶ小島に流され、ちっ居生活を送っていたころの話です。源氏の再興を誓って頼朝は、三嶋大社に丑(うし)の刻(こく)参りの祈願を続けていました。中町の地蔵尊付近にさしかかると夜ごとに美しい女性が物陰から頼朝の袖を引きました。ある夜、頼朝はその女性の両手を切り落としました。ところがその女性は地蔵尊の変化(へんげ)でした。切り落とされた両手は付近の川に流れ、川は血で染まり、その後この川は手乱川と呼ばれるようになりました。頼朝は供養にと、この地蔵を「手無し地蔵」と名付け、祀(まつ)りました。 江戸末期の慶応年間(1865〜1868)、下田街道で茶店をかねた駄菓子屋の荒川弥助が、まんじゅうを作り、三嶋大社の参詣者に売り出したのがはじまりです。今のような大まんじゅうにしたのは、大正時代(1912〜1926)、3代目の栄吉からです。大きさはその名の通り一番大きなもので直径35cm、厚さ20cm、重さ10kgもあります。皮が薄くアンがたっぷり入っているのが特徴で、他に類(るい)のない大きさでたちまち街道のみやげ『てなし大まんじゅう』として人気を呼びました。 現在はこの大きなまんじゅうは、注文があったときにのみ作ります。昔ながらの手作りで、防腐剤、人工甘味料、漂白剤は使用していません。まんじゅうは大きくなるほど高度な技術が必要で、直径20cm以上のものは全国的に珍しく、全国菓子博覧会で何度も受賞しています。 |
目次へもどる | 次ページへ | 前ページへ | 表紙へもどる |