水辺の生活カワバタ(川端)カワバタ(御殿川) 川沿いの家では、岸辺に張り出したカワバタを備え、風呂の水くみ、野菜洗い、洗濯などをしていました。昭和23年(1948)までは上水道はわずかしかなく、多くの家庭ではすべての生活用水に、川や井戸などの湧水を使用していました。 夏、食べ物が腐りやすい季節には、カワバタの杭(くい)にフネ(ブリキなどでできた川に浮かべる食料保存箱)を結び付けておき、水面に浮かべておきました。フネは、さながら天然の冷蔵庫でした。 水辺から離れた家では、共同のカワバタを利用していました。 出典 『郷土館シリーズ 49 歴史の小箱』 魚(さかな)とり昭和30年代後半までは、三島の街の至る所でせせらぎの音が聞こえていました。春、桜川の支流の小川には、10〜20cmくらいのまだあまり大きくない、ウナギの子供(ビリッコ)が上がって来ました。その流れが、小さな滝になっているような所があり、そこには、サワガニとアカハライモリがいました。サワガニは寝小便の薬になると言われていて、子供たちは捕って持ち帰りました。赤い腹をしたアカハライモリはうす気味悪く、さすがに持ち帰れません。当時アメリカでは、アカハライモリの首の周りにネクタイを締めさせ愛玩用(あいがんよう)に飼われているので高く売れると、聞いていました。 5月には、田んぼに水を入れる準備として、川掃除が行われます。その日、上流で川の流れを数時間堰(せ)き止めます。「大せいぎ」といって、子供たちばかりではなく、大人も交じって、魚とりに興じます。ズガニ(モクズガニ)、テナガエビ、アブラハヤ、フナ類などでバケツ一杯となることがありますが、一番の獲物(えもの)はウナギです。石垣の穴にいるウナギをじっと待ちます。中にはカーバイド(注)の粉をまいて、隠れているウナギが苦しがって出てきたところを捕(つか)まえる人もいました。 夏は、菰池(こもいけ)や今の白滝公園近くの比較的浅瀬の場所に「ハヤ瓶(びん)」を仕掛けます。透き通ったガラス製の容器で、瓶の中に餌(えさ)のだしこ(カツオ節粉)を入れ、一方の口の小さな穴の方を川草で蓋(ふた)をして、川底に沈めます。瓶が流れないように、少し離れたところから見張っていると、餌の匂いにつられ、何匹かのハヤが瓶の中に入ってきますが、出るに出られません。捕えたアブラハヤをどうしたかというと、あまり食べたという記憶はありません。逃がしてやったのかもしれません。 神川(かんがわ)(大場川)には、モジリを掛けます。捕(と)る獲物によって、中に入れる餌を替えます。ズガニには魚の切り身、ウナギにはミミズです。夕方、橋の杭(くい)に紐(ひも)を結んで川底に沈めておき、翌朝早く、モジリを揚(あ)げに行きます。 タンパク質源が少なかった時代、獲物が捕れたときの喜びは、獲物を分けてもらったとき以上です。でも商売にしている人もあったのでしょう。他人が仕掛けたモジリを勝手に揚げてしまう人もいて、そんなときは獲物を取られた方は泣きべそをかいたと聞いています。
(注) 炭化カルシウムのこと。かつてはこれを専用の器に入れ水を加えて、発生するアセチレンガスを燃やして、野外用の照明や金属の溶接などに利用された。 川遊び市内では、街の中の川や公園の湧き水などで気軽に水遊びができます。夏には子供たちが水の中に入って遊んでいる姿を見かけます。宮さんの川(蓮沼川(はすぬまがわ))の「宮さん」という名前は、きっと当時、サカナやカニをとる子供を、楽寿園のお屋敷から好感をもって眺(なが)められていた小松宮様を、子供たちが呼び始めて現在に至っているのでしょう。 昭和20年代までは白滝公園脇の桜川の水深は約1mあり、各家々と道路をむすぶ橋の下を、息をこらえていくつまで潜ることができるかを子供たちは競い合ったそうです。しかし富士山の雪解け水は思いのほか冷たく(通年、約15度)夏でも長い間入ってはいられません。寒くなっては水から上がり、カッパの甲羅干(こうらぼ)しよろしく、土の上に寝転んで体を温めては、また水の中へ跳び込みます。遊びに夢中で唇が紫色になり、親をびっくりさせた子供もいたそうです。
河川清掃(かせんせいそう)旧市街地を流れている桜川、御殿川、源兵衛川、蓮沼川(宮さんの川、小浜用水)は、どれも下流の水田を潤す農業用水路です。冬期は水を必要としませんが、5月下旬には田植えをするため、田んぼに水を引きます。 田んぼに水を引く前の5月第2日曜日に、冬の間に溜まったごみを取り除くため、川岸の住民が中心となり、自治会や20以上の団体、市職員、個人などがいっせいに河川清掃をします。平成12年(2000)は、約3,000人が参加し38tのごみや汚泥(おでい)を回収しました。(三島市環境保全課調べ) 川の水を、生活用水として洗濯や食器洗いに利用しなくなった昭和30年代後半以降は、上水道に頼る生活へと変わりました。それまではきれいだった川にも目を向けなくなり、水量の減少とともに次第に汚れ、ごみが捨てられるようになりました。冬期の水が流れていないときには、川はドブ川のように悪臭を出すようになってしまいました。 いっせい河川清掃日のほかにも、さまざまな団体、事業所や学校など子供から大人まで、きれいな川を保つための活動が行われています。
雷井戸(かみなりいど)南本町の人家を縫うように流れる四ノ宮川(よんのみやがわ又はしのみやがわ)のほとりに、雷井戸があります。 かつて、この井戸は田町水道といわれ、地域住民、約70世帯の人々の飲料水を供給する簡易水道の水源でした。井戸水を高さ約15mのタンクにポンプで吸い上げ、地面との落差を利用し、各戸に送水していたそうです。しかし、管理費用と水量及び衛生面からの問題が生じ、市水道へ転換せざるを得なくなりました。 こんこんと湧き続ける雷井戸の水は、今は生活用水として利用されることはありません。現在では三島ゆうすい会の有志が、井戸の水利権や土地を買い上げ、会員の手によって大切に管理されています。 井戸は円形で直径約3m、深さは約1.5mあります。井戸から湧き出す透明できれいな水は、辺りに移植されたミシマバイカモを左右になびかせながら四ノ宮川へと流出しています。 その昔、雷が落ちたから雷井戸と言われるのではないかという説もありますが、井戸にまつわる文献も残っていないため、この説も定かではありません。 昭和30年代中ごろまでは、この付近に数多くの湧水があり、南本町湧水群と言われていました。豊水期の総水量は、日量3万t余もあり、付近に水神(すいじん)を祀(まつ)ってありましたが、その後、湧水量は減少し、ついに涸渇(こかつ)したものもあります。
水車(すいしゃ)三島には、豊富な水がこんこんと湧き出ていたので、水力利用の製糸、製材、精米業を始めとして、紙すき、染色(紺屋(こうや))、製傘(せいさん)業者が川の流れに沿って軒を連ねながら、長い年月を水の恩恵に浴してきました。 市内で水車は数多く見られました。大正時代、水上(みずかみ)(現、白滝公園付近)の水車村だけでも、水車業は11軒を数えました。 平成11年(1999)、かつての風景を再現しようと、三島ゆうすい会の木工グループ「遊水(ゆうすい)匠(たくみ)の会」が、水車作りに挑戦しました。杉で作った直径150cmの水車で、翌年には松を使った直径180cmの大作を完成させました。どちらも「水時計」とともに、蓮沼川(宮さんの川)に置かれ、昔なつかしい風景に多くの人が足を止めていきます。
→ 紺屋、和傘 水時計(みずどけい)平成12年(2000)6月10日「時の記念日」に合わせて、「三島ゆうすい会」の木工ボランティア「遊水匠((ゆうすいたくみ)の会」が、「飛鳥(あすか)の水時計」を作りました。もととなった「漏剋(ろうこく)」と呼ばれる水時計は、飛鳥時代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)が作ったと『日本書紀』に書かれています。当時の人々はこれで初めて、正確な時刻を知ることができるようになりました。 市民の手で再現された飛鳥時代の水時計 階段状になった木製のもので、2mほどの高さの最上段に水槽を置き、サイフォンを使って水を流します。容器内の水位の変化で時刻を知ることができます。平成12年(2000)現在、蓮沼川(はすぬまがわ)(宮さんの川)に置かれています。 かわいらしいからくり人形も取り付けられ、その形も仕組みも、とても興味深いものです。
水琴窟(すいきんくつ)江戸時代の庭師が考案したという水琴窟は、鳥取県で存在が確認されました。10余年前には、岐阜県の電話局がテレフォンサービスで、その「まぼろしの音」を流していました。 この水琴窟はその後各地に広がり、三島でも、三島ゆうすい会会長の塚田冷子さん宅などに設置されています。 一般的に水琴窟は、日本庭園のつくばい(手などを洗う鉢(はち))の流水を利用した音響装置で、地中に伏瓶を埋めるなどして空洞を作り、そこに落ちる水滴が繊細で優雅な「日本の音」を反響させ、それがあたかも琴の音色に似ているところから名付けられた仕掛けです。「手水鉢(ちょうずばち)(手を洗う水を入れておく鉢)必ず雪隠(せっちん)(便所)近きものなり」と言われるように、水琴窟は、水の再利用であり、今の雨水浸透(うすいしんとう)マスの元祖(がんそ)とも言えるでしょう。 塚田邸では、この音を聞くためには、中の節をくりぬいた数10cmの細長い竹筒を耳に当て、その先端を水滴が落ちる場所に向けて聴きます。
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