公園三島市立公園楽寿園(みしましりつこうえんらくじゅえん)
小浜池から楽寿館をのぞむ(湧水時) |
小浜池(こはまいけ) 小浜池は、昭和の始めごろまでは三嶋大社例大祭のとき神職たちの「禊(みそぎ)」場(注1)となっていました。遷宮(せんぐう)(注2)のときの禊は大浜下りといって沼津の千本浜で行われるのに対し、小浜と呼ばれました。池はあまり大きくはないのですが、湧水の量が豊富なので、昔から源兵衛川、四ノ宮川、蓮沼川の水源として近郊の水田を潤(うるお)していました。一年中涸(か)れることはなく、せりの瀬、中の瀬、はやの瀬では、水遊びを楽しむ子供たちの歓声でにぎやかでした。昭和30年代後半ごろから上流での工業用水としての汲み上げなどの理由で湧水が減り、近年は5〜11月ごろの豊水期にも湧水が少なく、残念なことに池の底の溶岩が露出していることが多いです。平成10年(1998)には、降水量が多く、久し振りに昔の水量が戻りました。 (注1) 大切な神事などの前に川や海で身を洗い清めること。 |
この公園はJR三島駅南口から東へ約300m、白滝公園(水泉園)の北にあり、公園内の菰池の湧水は桜川の水源となっています。公園の名前の由来はいくつかありますが、一説には菰池付近は真菰(まこも)が多くはえた、のどかな湿地帯だったことから、この名が付いたといわれています。
『三島市誌』によると、幕末のころ、三嶋大社宮司(ぐうじ)の矢田部(やたべ)盛治(もりはる)がこの湿原を整えて水田にしたと記されています。大正以後(1910年代)、人家が密集し始め、昭和の初めの耕地整理で景色が変わり、第2次世界大戦後、住宅化が進みました。現在残っている湧水部分は菰池と鏡池ですが、鏡池の水は涸れてしまいました。
菰池は昭和58年(1983)、国土庁の指定によって実施された「水緑都市モデル地区整備事業」で回遊路、木橋、ベンチなどが整備され、池にはアブラハヤやオイカワなどが見られる、市民の憩(いこ)いの場となりました。
源兵衛川の中流に沿った親水(しんすい)公園です。数カ所の湧水や、竹やぶなどの自然を生かした公園です。川沿いに草木が多く、水と緑が調和し四季折々の美しさが楽しめます。小さな池もあり、コサギ、カワセミ、カモなどが見られます。
かつてこの辺りは吉野水苑(よしのすいえん)と呼ばれ、湧水を利用して食用のコイを飼育していました。
(注) 当時は国鉄と言った。
出典 『Welcome to ふじのくに 三島』
三島石で作った石臼 |
富士山から流出した玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩で、三島石または小浜石(こはまいし)、小堰(こせぎ)石と呼ばれています。かつて石切場が、現在の文教町にある日本大学の北東隅付近と、JR三島駅の敷地になって消えた小浜山にあったそうです。
三島石は、黒に近い灰色で、発泡孔(はっぽうこう)が多いのですが、非常に固く、石臼や石垣、墓石などに利用されていました。
出典 『石と生活展』、『三島いまむかし2』
めぐみの子 |
富士の白雪碑(しらゆきひ)白滝公園の南側にある碑は、「富士の白雪朝日に溶けて三島女臈衆(じょろしゅう)の化粧水」と書かれています。内容は農兵節の一節です。昔三島に豊富に流れていた富士山の雪解け水は、三島の女性を美しくみがきあげたと言われています。 昭和7年(1932)、三島水明会(三島町議会議員で構成)によって建てられました。 碑の岩質は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、大きさは幅約91cm、厚さ約14cm、高さ約340cmです。書は農兵節を普及させた平井源太郎によるものです。
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箱根西麓の赤王地先、パサディナタウンにあるこの公園は、雑木林の中に遊歩道が整備され、気軽に散策など自然に親しむことができる公園です。
また、林のほか平地部分には気持ちの良い小川が流れています。
→ 富士山のビューポイント
文教町の大場川沿いに、上岩崎公園があります。公園内には桜の木が数多く植えられていて、春はお花見が楽しめます。夏は、公園内にある上岩崎プールが子供たちの歓声でいっぱいになります。
平成10年(1998)には、駐車場も整備され、公園内の道も美しい石畳になりました。ミニアスレチックや池があり、小さい子供を連れた家族に人気があります。
上岩崎公園から、大場川を渡って壱町田方面へ抜けるために橋がかけられました。市制50周年を記念して完成した「あゆどめ橋」です。
あゆどめ橋の名は、この橋から100mほど上流にある鮎返しの滝(別名、鮎止めの滝)に由来します。
市街地にこのような自然が残されているのは素晴らしいことです。
→ 鮎返しの滝
→ 富士山のビューポイント
沢地の里山(さわじのさとやま)なくなりつつある日本の原風景の里山が、龍澤寺の周辺の沢地地区に残っています。 平成元年(1989)に、沢地工業団地ができて以来、交通量が増え、以前のような静かなたたずまいはなくなりましたが、寒川鼠骨(さむかわそこつ)(注)が紀行文『美哉(びなるかな)山林』の中で書き記している昭和の初めころの沢地の自然が、まだまだ手つかずのまま残っています。 下流で大場川と合流する沢地川が、山裾を削るように流れています。沢地川には、サワガニやカワセミが生息しています。6月には、数は少ないのですが、自然発生したゲンジボタルが川岸を飛び交います。 沢地川に沿って南東側にある山は、はなそそ山といって早春には美しい芽吹きを見せ、夏にはクワガタなども生息しています。秋にはドングリやクリがたくさん落ちます。往時に植栽したクヌギ、コナラの広葉樹の多い雑木林と、その裾に点在する棚田風(たなだふう)の水田は、まさしく里山の風景です。 アマガエルの鳴き声、夏のヒグラシ、秋の虫たちのハーモニー、生命を育む川と水田が共存する里山は、守りたい私たちの大切な財産です。 (注)明治8年(1875)松山市生まれ。名は陽光(あきみつ)。松山藩士寒川朝陽(ともあき)の第3子。新聞「日本」に入社後同郷にして同僚の正岡子規の門下生として俳句、写生文を試み、昭和4年(1929)に現代日本文学全集に『美哉山林』を記す。 |
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