三島の商業三島は田方平野の物資の集散地(しゅうさんち)として、また東海道の宿場町として栄えてきました。特に江戸時代には箱根を控えた三島は、三嶋大社を中心に宿屋や商店が軒を連ねていました。しかし、明治以降は日本の急速な近代化に取り残された感があります。鉄道の発展にともなう交通網の発達により、宿場町としての優位がなくなったのです。 昭和9年(1934)の三島駅開設以前の三島は、商店の数は人口に対して多かったものの、幹線から離れた地方都市の停滞状態(ていたいじょうたい)にあり、小規模で非近代的な形態の店がほとんどでした。 三島駅開設以降は伊豆半島の玄関口として脚光(きゃっこう)を浴び、商店の形態も徐々に近代化され、店頭の装飾(そうしょく)も増えました。特に昭和44年(1969)の新幹線三島駅開設後は地理的有利性が増しました。一方、戦後の市街地の買い物客の流れをみると、昭和40年ごろまでは、三嶋大社から本町交差点の間が主流でした。しかし、大型量販店が相次いで開店されたため、それ以降は本町から広小路へと移っていきました。 最近は、大駐車場を有する郊外型スーパーが市内外に続々と建てられたため、市内の小売り商店は苦戦を強いられています。 その対策として、三島商工会議所と市内商店主の努力により各種イベントが活発に催され、魅力(みりょく)ある商店街づくりが積極的に推進されています。 出典 『三島市誌増補』p.295、『三島』p.43 三島商店街マップ 平成12年(2000)現在 |
大通り商店街今昔(こんじゃく) |
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三嶋大社から広小路まで旧国道1号の東海道に沿った通りは、中央町、本町など市の繁華街(はんかがい)として、昔から最もにぎやかな通りです。平成12年(2000)10月の平日、この通りを歩いてみました。 本町交差点で東西に分かれる商店街に大きな違いが見られます。先ず、人通りの数です。三嶋大社に向かって東に歩いて行くと、歩道を歩いている人の数が減ってきます。昼近くの午前中でしたが、商店に入っている買物客の姿はほとんど見られません。 逆に西に向かって歩いてみると、三島広小路駅に近付くに従って、通りを歩く人の数が増えてきます。歩道までせり出した婦人用品の店や鰻屋など、人だかりしている店も見られます。 次に、店構えの様子です。東側、中央町方面では、「みしまプラザホテル」や「伊伝」のようにビル化した建物や専門店風に新装した商店も見られますが、おおむね古い店構えで、駐車場にした空き地から店裏にある蔵も見られて、むしろ歴史を感じる町並みといえます。西側、本町方面は、閉鎖している「ネクステージ三島」跡のブラックホール的空間もあり、「翁亭」、「増田屋」のような古い建物も見え、戦前からの店もかなり改築されており、個性化された専門店が並んでいます また、中央町方面はほとんどの店舗(てんぽ)が住宅兼用ですが、本町方面では住む所は別という商店が多く、夜間の防災など苦労が多いようです。 少し時代考証(じだいこうしょう)をしてみましょう。三島の町が大打撃を受けた北伊豆地震から復興した昭和12年(1937)ごろの写真を見ると、何本も立てられた各商店ののぼり旗がはためいており、久保町(現、中央町)辺りのにぎわいの様子が伝わってきます。大正7年(1918)、野戦重砲連隊が駐屯し、昭和9年(1934)には、待望の現東海道線の開通により、三島駅(新駅と呼んだ)ができ、小中島、大中島(現、本町)にあった貸座敷などが茅町新地(現、清住町)へ移転しました。それを機会に、小中島、大中島にも商店が並ぶようになりました。 この通りの戦前の繁華街は中央町辺りでしたが、現在は三島広小路駅付近に中心が移っています。中心が移動した原因は、鉄道やバスなどの交通の便や大型店(スーパー)の進出による強い刺激が挙げられます。個々の商売でも、足袋屋、下駄屋、呉服屋、八百屋など時代の変化に消えた店や、パチンコ店、携帯電話を扱う店など新しく生まれた店もあります。 出典 『三島市誌増補p.295、『三島』p.43 上図は昭和十二年の商店街、下図は平成十二年十二月現在商店街の地図 地図はこちらをクリック 老舗(しにせ)
老舗とは、先祖代々の生業(なりわい)を守り継ぎ、顧客(こきゃく)の信用を得て繁盛(はんじょう)している店で、三島には、古くから三嶋大社の門前町として栄えた市ヶ原(現、大社町)、久保町(現、中央町)を中心に、代々親から子へ引き継がれ、すでに1世紀を越え、同じ生業(なりわい)を続けている商店が40軒近くあります。 今回、その内江戸時代から残る「丸屋薬局」、「糀屋(こうじや)商店」、「伊伝」、「綿文(わたぶん)呉服店」の4店を訪ねました。 ●「丸屋薬局」 平成10年(1998)、竹林寺小路(ちくりんじこうじ)の拡張に伴い、店舗の改築を行いましたが、道路に面したなまこ壁が印象的です。それまでは、大正年間に建てたという3階建ての洋風建物が有名でした。江戸時代、恭寿堂(きょうじゅうどう)丸屋薬舗と称し、元和(げんな)(1615〜1624)ごろの創業で、代々店主は、山本甚兵衛を名乗り、丸甚(まるじん)と呼ばれていましたが、暖簾(のれん)(注1)には丸に上が付けられ、残っています。今回の改築の折り、蔵を整理したところ、時代劇で有名な大岡越前守名が記された漆塗(うるしぬ)りの看板が見つかったそうです。 |
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●「糀屋(こうじや)商店」 久保町(現、中央町)に店を構え、江戸時代にはこの店までの通りを祓戸(はらいど)通りと称しました。以前の店は、現在の店の反対側大社寄りにあったそうです。平成11年(1999)に店舗を新築した際、残っていた昔のものは、ほとんど処分してしまったとのことです。 現在の店主は17代目で、明暦元年(1655)の記録は残されているようですが、もっと古い開業ではないかということです。約800年前、先祖が三嶋大社に参拝にきた源頼朝(1147〜1199)に、甘酒を進呈したという逸話(いつわ)が残されています。菩提寺(ぼだいじ)は本覚寺ですが、過去帳も途中で消えてしまっているそうです。江戸時代、乾物(かんぶつ)や糀(こうじ)(注2)を扱っていたことから、店の名前が付けられたようです。 |
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●「伊伝」 中央町の一角に伊伝株式会社の看板を掲げた、5階建てのビルが建っています。この会社の基盤(きばん)を作った12代目の村上伝右衛門は、昭和8年(1933)の会社設立に当たって、これまでの屋号であった伊勢屋の「伊」と、世襲(せしゅう)であった伝右衛門の「伝」を取って、「伊伝」としました。 村上家の先祖は、伊勢の武士で、その子孫が明暦元年(1655)に現在の地で、先祖の出身地から取った伊勢屋の屋号で油屋を開業しました。その後、代々の伝右衛門を襲名(しゅうめい)して家業を継ぎ、300有余の年輪を刻んでいます。 ●「綿文呉服店」 店を創業した蛭海家(ひるみ)の先祖は伊豆長岡町古奈の出身で、蛭(ひる)ヶ小島に流されていた頼朝に姓を受けたといわれています。当家の初代が文政8年(1826)、市ヶ原(現、大社町)に出て、呉服(絹物)、太物(木綿物)、畳表(たたみおもて)を扱いました。明治、大正にかけ日の出の勢いで隆盛を極め、明治維新の衣装を引き受けたといわれています。店の繁盛振りが伝わる何枚かの写真も残されており、明治40年(1907)10月20日の午前5時から発売した「蛭子(えびす)袋」に多くの買物客が集まり、大変な騒ぎとなった様子も写されています。家屋敷は、旧町名で市ヶ原、宮倉、伝馬町と3町にまたがり、久邇宮殿下(くにのみやでんか)が、この家に泊まった写真も残っているそうです。 昭和24年(1949)、六反田2丁目(現、緑町)に移転し、現在の5代目が「座して待つより、い出て取らせよ」の金言(きんげん)を基に、外交を主とした商売の仕方に変えたそうです。最近はやりの訪問販売の先駆(せんく)といえるでしょう。 (注1)のれん(暖簾) @軒先に張って日よけとする布で江戸時代以降、商家では屋号などを染め抜いて商業用とした。Aのれん名の略 (注2)こうじ(糀、麹) 米、麦、豆、ふすま、ぬかなどを蒸して、これにこうじ菌を繁殖させ、酒、醤油、味噌などを製造するのに用いる。
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江戸時代の商家の間取り
江戸時代の三島の町並みを描いた「三島宿軒図(しゅくけんず)」を見ると、東海道を挟んで道の両側に「うなぎの寝床」のように細長い商家がびっしりと並んでいます。 江戸中期、宝暦9年(1759)の三島宿の記録によれば、町を構成していた商家は、旅館が「本陣」と「はたご」を合わせて74軒と最も多く、そのほかに茶屋、酒屋、大工、鍛冶屋(かじや)など、旅館以外の商家も87軒ありました。 当時の商家の間取りは、現存している家がないので、古老の伝承でしか分かりません。 往来から店の大戸を開けて入ると土間になっています。土間は家の中を通り抜けて裏庭まで続いており、店の奥は中の間、続いて座敷があり、土間を挟んで向かい側に勝手場や風呂場がありました。座敷から見える中庭には、屋敷神の稲荷社などが祀られていました。家によってはその奥に蔵、あるいは隠居(いんきょ)部屋が建っていました。 宿軒図には、間口(まぐち)、奥行きなどが記載されているのでそれを検討してみると、間口は3間半(けんはん)(注)から7間、奥行きは4〜5間から10数間ぐらいで、各戸一様に間口に合わせた長方形家屋(かおく)でした。 これが街道の商家の典型と言えるでしょう。 (注)1間は約1.8m 出典 『広報みしま617、郷土資料館シリーズ16』 |
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商家(しょうか)の屋号(やごう)市役所前のタイサンボクの根方(ねかた)にある小さな社の近くに「鍋利(なべり)」と彫られた、頂部が丸い石柱が目に付きます。「鍋利」とは三島で400年以上続いている川島家の屋号で、初代の川島利兵衛が鍋などを鋳造(ちゅうぞう)していたので「鍋利」といわれているそうです。 一般的には、屋号は1つの集落に同じ姓の家が何軒かある場合、お堂の前にあるから「堂前」、村の入口にあるから「入り」、分家なので「新宅」、魚を販売していたので「さかなや」などと、その屋敷の位置や成立事情によって屋号を決めていました。また、明治以前は、武士以外は苗字(みょうじ)帯刀(たいとう)が許されておらず、宿(しゅく)で商売する上で生業や出身地などを屋号にして互いに呼び合いました。 しかし、第2次世界大戦後は大きな変革の中で、多くは消えていきましたが、往時の雰囲気を知るために、いくつかの屋号を紹介してみます。久保町(現、中央町)には、木屋、丸屋、伊勢屋、菱屋、吉田屋などがあり、木喜(もっき)は材木問屋の河辺喜衛門本家を指し、分家には木富(きとみ)、木仙(きせん)があります。市ヶ原(現、大社町)には、全盛を極めた綿文があって、現在でも堺屋、小泉屋をはじめ間彦(まひこ)などがありますが、堺屋、小泉屋、堺藤は、往時、北条氏を攻めた豊臣秀吉が、三島宿再興のため派遣(はけん)した堺からの商人名を残すものと言われています。 参考 『MIRA通信』No.17 |
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看板建築(かんばんけんちく)市街地のあちらこちら、特に三嶋大社を起点にして旧下田街道を南下するか、または、旧東海道であった大通りを西に向かって歩いて行くと、「看板建築」の建物が右、左に見られます。看板建築とは、木造商店の前面をモルタルや板金で装飾(そうしょく)した建物で、昭和5年(1930)の北伊豆地震の後、多くの商店がこの様式で建築されました。このうち、三島商工会議所が大社町の空き店舗を利用して「懐(なつ)かしい昭和の時代」を再現する県内初のモデル事業として発足させ、現在はギャラリーアートワークが入っている「旧ムラカミ屋」が、平成12年(2000)7月に、文化庁から登録文化財の答申を受けました。建物全体を銅板で囲んだような看板建築は、この他に、大社町に1軒(渡辺漆器店)、東本町に1軒(倉屋荒物店)と、北田町に1軒(今は営業していない)などとなっています。あるお店の話では、建築費が当時のお金で5,000円かかったそうです。 また、モルタル塗りの建築で、店舗2、3階の出窓や壁面などを、モダンなデザインで装飾した建物も多く残されてきましたが、最近、廃業や改築によって、取り壊されたものがあります。市街地の活性化のためにも、今は貴重になったこのような建物を大切に保存活用していきたいものです。 参考 『MIRA通信No.34』、『701 Street NewsVol.7
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三島商工会議所昭和21年(1946)11月18日、県内5番目に設立された三島商工会議所は、現在の三島市総合防災センターのところに事務所を置き、活動を開始しました。初代会頭原国太郎以下、戦後の混乱から市内商工業の振興を積極的に推進しました。昭和22年(1947)、三島商工まつりや歳末大売出しを始めました。昭和23年(1948)には、珠算技能検定試験をスタートさせましたが、当時の学童たちの塾通(じゅくがよ)いといえば、珠算(しゅざん)と習字で、珠算1〜3級の資格を取ると大変なもののようでした。昭和28年(1953)、新商工会議所法が施行(しこう)され、これに伴い三島商工会議所は、特殊法人としてその区内における商工業の改善発達を図るとともに、社会一般の福祉の増進に資することを目的とした地域総合経済総合団体と位置付けられました。その後2度の移転を経て、昭和63年(1988)12月に現在の場所に事務所を構え、今日に至っています。 平成に入ってからの最大課題は、何といっても商店街の活性化問題です。平成12年(2000)7月現在で、三島商店街連盟に加盟する商店会は21会で会員数は1,058軒ですが、22年前の昭和53年(1978)時より、商店会が5会、会員数が223軒増えています。しかし、三島市街周辺の大型店舗の包囲網(ほういもう)が広がる中でのきびしい状況は変わっていません。したがって地域商業の振興のために、経営の体質改善、人材育成など、商工会議所の役割は重要となっています。そして、三島市の工業、観光情報など各分野の企業との提携を深め、新たな産業の創出(そうしゅつ)に努めるとともに、平成8年度の創立50周年を機に、商工会議所が三島の街づくりを提言した地域振興(しんこう)ビジョン「街中がせせらぎ」事業を、市民、行政、各団体と連携(れんけい)し推進しています。 出典 『創立50周年記念誌』 |
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三島の金融機関日本の銀行成立の始めは、明治5年(1872)11月の国立銀行条例制定によります。国立銀行は「兌換(だかん)紙幣」(注1)である銀行紙幣を発行するもので、普通銀行と区別されますが、静岡県における銀行の設立も国立銀行が最も早く、明治11年(1878)当時、日本の銀行数161行の内153行が国立銀行でした。しかし、このころ既に西南戦争(注2)後のインフレ傾向で事実上不換紙幣(ふかんしへい)(注3)となって紙幣価値が下落しました。明治14年(1871)松方財政によるデフレ政策がとられ、国立銀行が整理され、静岡県の銀行も普通銀行のみとなりました。昭和5年(1930)3月に公布された銀行法によって、資本の集中、銀行の集中化が図られ,昭和15年(1940)には、「伊豆銀行」と「伊豆相互貯蓄銀行」の2行となっています。なお、この銀行の整理統合のころ、三島に支店を持つ銀行は「伊豆銀行(2店)」、「駿河銀行」、「沼津銀行」、「三十五銀行」があり、「伊豆銀行」と「伊豆相互貯蓄銀行」は、ともに昭和18年(1943)「静岡銀行」に併合され、その後「沼津銀行」「三十五銀行」も同じ運命をたどりました。 平成12年(2000)の三島市内には次のとおり11の金融機関があります。三和銀行、静岡銀行、静岡中央銀行、静岡県労働金庫、清水銀行、スルガ銀行、第一勧業銀行、中部銀行、沼津信用金庫、三島函南農協、三島信用金庫(50音順)。 (注1)正幣と引き換える約束で、銀行が発行する紙幣 (注2)明治10年(1877)の西郷隆盛らの反乱 (注3)発行者が紙幣交換者要求があっても本位貨幣と引きえる義務を負わない紙幣 (注4)花島兵右衛門が創業した銀行 出典 『三島市誌 下巻』P.75、 『花島兵右衛門(三島市郷土資料館)』 三島信用金庫
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