東海道古代からの東海道『古事記』(奈良時代712年完成)『日本書紀』(奈良時代720年完成)に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東海道を通って東国(とうごく)平定に向かったとの記述があります。ただし、どの経路を通ったかはっきりしません。
慶長6年(1601)徳川家康は江戸を中心に五街道(注3)の整備に力を注ぎましたが、中でも、東海道を重視して最終的に53の宿駅を設けて、公私の通行に便宜をはかっていきました。 箱根の経路は推定平安・鎌倉古道から更に南に寄って現在の旧東海道とほぼ同じになり、箱根旧道・旧東海道・箱根石畳(いしだたみ)などと呼ばれています → 律令体制下の三島、平安・鎌倉古道、箱根石畳 平安・鎌倉古道(へいあん・かまくらこどう)平安時代の延暦(えんりゃく)21年(802)の富士山の大噴火によって、それまでの東海道であった足柄路が約1年間閉ざされ、かわりに箱根路が開発されました。京の都と関東を結ぶ道は一時的に箱根を越える道が使われるようになりました。その後、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際、この道は、鎌倉に通じる「上ノ道」(信濃路)、「中ノ道」(奥州道)、「下ノ道」(房総・常陸道)に代表される鎌倉街道の1つとして整備され、建久5年(1194)鎌倉と京都を結ぶ63の駅を持つ東西の交通の要となりました。 鎌倉街道は、関東をはじめ諸国の武士団が「いざ鎌倉」というときに馳(は)せ参じた軍道であり、道筋には豪族の居館や寺社などが多く見られるのが特徴です。建治3年(1277)、阿仏尼(あぶつに)は『十六夜(いざよい)日記』に、三島の国府を出発し、この道を通って箱根を越えたことを書き記しています。 平成2年(1990)、古道の調査が行われ、「推定平安・鎌倉古道」として復元されました。「推定」と標記されているのは、時代と共に少しずつルートが変遷し、最も有力と思われるルートが選ばれたためです。 推定平安・鎌倉古道を散策するには、まず、JR三島駅南口からバスで箱根峠に登るとよいでしょう。箱根峠頂上の手前に、箱根別荘地・箱根旧街道への道標があります。ここから、さらに1.5kmほど別荘地の端に沿って歩くと「推定平安・鎌倉古道」と彫られた小さな石碑があり、ここが三島市内に現存している推定平安・鎌倉古道の東端となっています。 別荘地から森の中を抜け、元山中の西側の尾根伝いに下ると関所跡があります。室町時代に作られた関所と言われています。 さらに下ると、龍爪(りゅうそう)神社から光ヶ丘、賀茂川神社、三嶋大社の道と、旭ヶ丘、願成寺、三嶋大社の2つの道があったようです。 箱根石畳(はこねいしだたみ)「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川・・・」 この唄(うた)が示すように、箱根は大井川と並ぶ東海道の2大難所でした。 江戸初期発行の『東海道名所記』によれば、すべりやすい関東ローム層の赤土の坂道は、旅人を相当苦しめたと書かれています。ところが幕府にとっては、箱根の山は西国の大名に対する天然の要塞(ようさい)であり、江戸初期には険(けわ)しい道の方が望ましいことだったようです。 しかし、政情が安定して人馬の往来が盛んになると、街道の整備にも力を入れました。そして西坂には箱根竹(篠竹(しのだけ))を敷きました。しかし、竹は腐ってしまうので毎年敷き替えを行わねばならず、この費用を負担する奥伊豆の農民は大変苦しみました。そのため、延宝8年(1680)に坂道に石を敷くという大工事が行われました。 石畳は傷(いた)むと整備されましたが、最も大きく有名な普請(ふしん)は、文久元年(1861)孝明天皇の妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう)が、十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁いだとき、幕府が時の代官・江川(えがわ)太郎左衛門(たろうざえもん)英敏(ひでとし)に命じて大補修させたものと言われています。 この敷石工事に際し、付近の住民に石の供出(きょうしゅつ)と労役が課されました。石不足に困って石臼(いしうす)を供出した者もありました。こうした石臼が、明治のころには笹原から川原ヶ谷までの間に10数個ありましたが、現在はもう1つも見つかりません。現在の石畳は、三島市が平成6年〜9年(1994〜1997)に5カ所(願合寺、腰巻、浅間平、上長坂、笹原各地区)の発掘調査と整備事業を行い復元したものです。 金谷宿(かなやしゅく)の金谷坂(静岡県金谷町)にも部分的に石畳がありますが、本格的に石畳が敷かれた場所は箱根だけです。 出典 『三島市誌 中巻』p.381、『発掘された箱根旧街道』、『ふるさとの街道・箱根路』、 箱根宿(はこねしゅく)箱根宿は小田原から4里8町(約17km)(注)、三島から3里28町(約15km)の地点にある山上(さんじょう)の宿場(しゅくば)で、元和(げんな) 4年(1618)の成立と伝えられています。この宿場は2町1宿の構成で、住民も三島宿と小田原宿から各50戸を移住させ、三島からの移住者が定着した場所を三島町と称しました。 (注) 1里は36町で約3.9km、1町は60間で約109m
接待茶屋(せったいぢゃや)国道1号(箱根西坂の山中新田上)の大きくカーブしたところに、「接待茶屋」というバス停があります。 「箱根の山は天下の険(けん)」(注1)と言われたほど、箱根は関所あり急な坂道ありで、旅人にとっては非常に苦労の多い大変な山越えでした。こうした苦労を目の当たりにして、文政5年(1822)江戸呉服商人加勢屋与兵衛(当時74歳)は基金500両(注2)を幕府に出し、この利息(りそく)で一般の人には湯茶を、馬には飼葉(かいば)を接待しようと考えました。 そして、文政7年(1824)に山中(やまなか)一里塚(いちりづか)と箱根町の畑宿(はたじゅく)に接待茶屋を設置しました。人には湯茶、馬には飼葉を与え、寒い時期には人足(にんそく)・貧窮者(ひんきゅうしゃ)にも粥(かゆ)を与えたり、焚火(たきび)をしたりしていました。与兵衛亡き後も、茶屋の運営は多くの篤志家(とくしか)たちにより受け継がれ、昭和25年(1950)まで続けられていました。 ちょうどこの辺りは三島市と函南町の境付近で、少し下ると旧東海道の石畳、明治天皇小休止跡碑、三島市ふれあいの森などがあります。 一里塚(いちりづか)
江戸幕府(徳川家康)は、慶長9年(1604)主要街道に並木を植えるとともに一里塚を設置しました。目的は大名の参勤交代や旅人の通行の便、馬や駕籠の賃銭の目安(めやす)、旅人の憩いの場などです。 工事は大久保石見守(いわみのかみ)長安(ながやす)を総監(そうかん)(総責任者)として進められ、東海道の一里塚は日本橋から京都三条まで(125里20町)(注1)の間に、1里(約4km)ごとの道路の両側に、高さ3尺(約1m)、幅5間(約10m)四方(または円形)の塚を築き、エノキの木などを植えて造られました。塚に植える木の選定にあたって、大久保石見守が家康に伺ったところ、家康が「その方のええ木を植えよ」とか「よの木を植えよ」とか言われたのをエノキと思って植えたとの説がありますが、根が深く広がって、塚が崩れにくいとの理由からエノキが選ばれたと思われます。ほかにはマツ、マユミなどがあります。 松並木国道1号(東海道)の三島市街から箱根への登り口付近、登り車線の両側に1km以上にわたって松並木があります。この上り車線上に江戸時代の旧東海道がありました。この松並木は、三島市内に唯一残っている旧東海道の松並木です。 旧東海道沿いに松並木を植えさせたのは江戸幕府で、目的は敵の侵入を防ぐためなどの説がありますが、『武江(ぶこう)年表』によると、創設は慶長9年(1604)で「夏は木陰を作り旅人を憩(いこ)うところとさせた」と記されています。冬も並木が風を防いでくれ、この松並木は、当時厳しい旅を続ける旅人たちの助けになるように植えられたものと思われます。 松は川原ヶ谷から山中城下の富士見平まで、植えられていましたが、第2次世界大戦末期に軍用のために大部分が切られました。根部も松根油を取るために掘り出され、松並木の姿は全くなくなりました。 富士見平より山頂にかけては霧が多く発生するので、杉が植えられました。山中新田の上に当時の杉が4本残っています。 → 箱根石畳、一里塚、富士山のビューポイント 出典 『ふるさとの街道』p.258、三島市HP 下田街道現在の下田街道 下田街道は、三嶋大社の大鳥居を起点として大場・韮山・大仁・修善寺・湯ヶ島を通って下田に至る、ちょうど伊豆半島の真ん中を通る17里14町(約70km)の道のことを言います。この道は、江戸時代中期までは天城街道とも呼ばれていました。 下田街道は、源頼朝(みなもとのよりとも)が三嶋大社の修復に併(あわ)せて文治(ぶんじ)2年(1186)に作ったと伝えられています。頼朝が源氏(げんじ)再興を祈って三嶋大社に百日祈願(ひゃくにちきがん)のため韮山三島間を往復したので、街道筋には頼朝にまつわる伝承地(妻塚(さいづか)・間眠神社(まどろみじんじゃ)・手無地蔵(てなしじぞう)など)が多く見られます。 江戸時代に入ると、韮山に設けられた代官所への往復、南伊豆や伊豆七島の人たちの「明神講(みょうじんこう)」(注)を組んでの三嶋大社詣(まい)りに利用されました。幕末には、異国船の下田接近以来この街道の重要性が、江戸幕府に認識されることになりました。安政4年(1857)アメリカ初代駐日総領事ハリスは、下田から三島まで馬で3日間かかったと記録しています。 明治時代になり馬車が走ったりしましたが、大正時代にはバスが取って代わり現在も運行しています。その後マイカー時代になり、伊豆半島・下田方面への観光道路として交通量が激増しました。そのためバイパスができ、今ではこのバイパスが下田街道と呼ばれ、もとの道は旧下田街道と言われるようになりました。 旧下田街道が一番にぎわいを見せたのは、明治時代でした。商人たちが行き交い、物と人との重要な交流道路になりました。三嶋大社周辺の街道沿いには大きな問屋が集中して建ち、銀行もできました。最近では、一時さびれ、にぎわいを失った三嶋大社前の街道を再び活性化させようと、「門前町(もんぜんまち)えびす参道さくら祭り(4月上旬)」や「門前町下田街道まつり(9月23日)」のイベントを開催したり、ガス灯風の街灯も作られ門前町の情緒を出しています。 また、三嶋大社に向かって右側の通りに面した「懐古堂ムラカミ屋」(大正15年(1926)建築の木造鉄板葺2階建)は、平成12年(2000)7月18日、国の文化財建造物として登録されました。 (注) 神社、仏閣への参詣や奉加、寄進などをする目的でつくられた信者の団体。 → 妻塚、間眠神社、手無地蔵、三嶋大社 すじかい橋三嶋大社前のえびす参道(旧下田街道)を南下して、しばらくすると左手に大社町郵便局があり、その横に「伊豆国分尼寺跡」の石碑が建てられています。この付近の道路の下を、灌漑(かんがい)用に分流された桜川が斜めに横断し、今も流れていますが、かつては石橋が架(か)けられていたそうです。橋も斜めに架けられたことから、すじかい橋と名付けられています。 この橋の橋桁の石に、塔の心礎(しんそ)が使われていました。現在は祐泉寺境内に移され、保存されています。白鳳期(注)に建てられた寺院の塔の心礎です。現在の下田街道から祐泉寺にかけて7世紀の末から8世紀にかけて、壮大な寺院が建っていました。これが大興寺ではないかといわれています。 大興寺塔心礎
|