戦国時代山中城跡(やまなかじょうあと)(国指定史跡)
山中城は16世紀(戦国時代)、天下の険で名高い箱根山西麓に番城(ばんじろ)(城主を置かない城)として、小田原城を本城とする北条氏康(ほうじょううじやす)によって築城されました。 豊臣方で山中城本丸に1番乗りを果したのは、渡辺勘兵衛(かんべえ)と言われています。 秀吉の宣戦布告後、北条氏は小田原城を出て豊臣軍を迎え撃つか、あるいは籠城(ろうじょう)すべきかで意見が対立し、論争が100日間も続きました。後世、このように会議で結論がまとまらないことを「小田原評定」と言うようになりました。
(注) 出陣式で矢を放ち、吉凶を占ったと伝えられる。
後北条氏(ごほうじょうし)(小田原北条氏)
後北条氏の祖(そ)、北条早雲(伊勢新九郎長氏(ながうじ)・早雲庵宗瑞)(1432〜1519)は、駿河の守護(しゅご)今川家の内紛を収めて今川竜王丸(たつおうまる)(後の今川氏親(うじちか)の擁立(ようりつ)に成功し、興国寺城主となりました。さらに延徳3年(1491)堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知(あしかがまさとも)の子、茶々丸を殺して韮山に移り、韮山城を築いて伊豆一円の支配者となりました。 早雲は三嶋大社に参詣して武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈っていますが、2本の杉の大木を1匹の小さなねずみがかじり倒す夢を見て、2本の杉を関東の両上杉(扇谷(おおぎがやつ)、山内(やまのうち))氏、ねずみを子年(ねどし)生まれの自分と見立て、三嶋大社が自分の将来を教えてくれたに違いないと喜んで、神馬(しんめ)、太刀(たち)、鎧(よろい)兜(かぶと)を奉納しました。その後関東への進出を画(はか)り、相模(さがみ)(現、神奈川県)を支配下に収めました。 2代目の氏綱(うじつな)(1486〜1541)は、さらに武蔵(むさし)(現、東京都・埼玉県)下総(しもうさ)(現、千葉県)に勢力を広げました。 3代目の氏康(うじやす)(1515〜1571)は、両上杉(扇谷、山内)氏を破り、関東の覇権を握り、永禄(えいろく)年間(1558〜1570)に山中城を築いたと言われています。 4代目氏政(うじまさ)(1538〜1590)も積極策をとり、関東・中部両地方へ勢力拡大を画りましたが、5代目氏直(うじなお)(1562〜1591)のとき、天正18年(1590)に山中城、韮山城、小田原城を豊臣秀吉に攻められて滅ぼされました。 北条早雲以後5代にわたり、大勢力を築き上げた根拠はいくつかありますが、年貢(ねんぐ)軽減や中間搾取の制限などの仁政(じんせい)(注1)を行なったことも上げられます。また、三嶋大社への崇敬(すうけい)(注2)が深く、社殿の建立(こんりゅう)や、刀、所領(しょりょう)の寄進もしばしば行っています。 (注1) なさけぶかい政治
落城悲話(らくじょうひわ)
天正記(てんしょうき)に「関東一の木戸箱根の険に守備せば上方(かみがた)幾万を似ってすと謂(いえど)も来(きた)り戦はじ・・・」と後北条氏は豪語し、箱根の天険を背負った山中城を頼りにしていたことが記されていますが、山中城を守る内情はどうであったでしょうか。 箱根神社文書(もんじょ)に山中城主の「松田康長消息(まつだやすながしょうそく)」があります。戦いの直前の3月19日付と21日付の2通の情勢報告に、「二子山も何山も小田原の防ぎにはならない。小田原防衛は、山中・韮山・足柄の3城であるが何としても相手の豊臣軍は余りにも多すぎる」と言い、また豊臣軍の動きを報ずる中で、敵陣営も糧食に詰り長期戦は困難であろうなどと報告し、頑張って城を守り城と運命を共にする覚悟を示しています。 また岱崎(だいさき)出丸(でまる)を守って討死(うちじに)した間宮(まみや)康俊(やすとし)も山中城の構えと人数では大軍を防ぎきれないと覚悟し、孫の彦次郎と悲壮な決別をして小田原へ帰しています。 さらに相州(そうしゅう)(現、神奈川県)丹波(たんば)の堀内文書(もんじょ)の「北条氏勝(うじかつ)書状」には、「わずか5,000の軍勢で天下の大軍を防ぎようもない。小田原へ増援を頼んでも承知せず人数も来ない。これでは山中城は1日ともつまい。討死と心に決めているので山中落城と聞いたら、内々話してあるように・・・」と山中城の落城を必至と悟り、その後の玉縄(たまなわ)城の処置を堀内日向守(ひゅうがのかみ)宛に頼んでいます。 後詰(ごづめ)のない山中城を守る武将が、死を覚悟している悲壮感に心を打たれます。 出典 『ふるさと三島』p.52 一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)
山中城の戦(いくさ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)が全国を統一する最後の戦いとなった小田原攻略の重要な戦いであり、その歴史的意義は極めて大きいものがあります。山中城三の丸跡にある宗閑寺(そうかんじ)(山中新田)境内の片隅(かたすみ)に、山中城の戦いにはかなく散った武将の墓がひっそりと苔(こけ)むしています。この中の1つに一柳直末の墓があります。 一柳直末は元亀(げんき)元年(1570)豊臣秀吉に仕(つか)え、多くの軍功をたてて次第に重用(じゅうよう)されていきます。この山中城攻撃のときは、伊豆の守(かみ)に任ぜられ領地も6万石(ごく)余りを持っていました。 山中城の攻撃に際して、直末は豊臣秀次(ひでつぐ)の率いる中央軍の先鋒(せんぽう)(注)となって進みました。山中城は険しい地形を持ち、さらに、相手の固い守りのため容易に破ることができませんでした。直末は決意を固め、兜(よろい)の緒(お)を切って敵陣に突入しました。この直末の奮戦は後北条方(ごほうじょうがた)を大いに怖(おそ)れさせたと言われていますが、不幸にもこのとき鉄砲の弾にあたって戦死してしまいました。時に直末38歳でした。 秀吉はこの直末戦死の報をちょうど食事中に受けましたが、驚いて箸(はし)を投げ出し「小田原城にも換えがたい人物を失ってしまった」と、大変嘆(なげ)いていたと言われています。
(注) 部隊などの先頭に立つ者 |
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