寺院遠成寺(おんじょうじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・幸原町2丁目)この寺の宗派は日蓮宗で、身延山(みのぶさん)第27世通心院日境上人(つうしんいんにっきょうしょうにん)が、寛永(かんえい)10年(1633)5月伊豆に巡教のとき、境川のほとり(現、幸原町2丁目)に一宇(いちう)(注1)の法華堂(ほっけどう)(注2)を建て、「ここは久遠実成(くおんじつじょう)の本師釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)のおられるところであり、真心をもって合掌(がっしょう)し、信心に励めば幸せが得られます」とし、寺名を大幸山遠成寺(だいこうざんおんじょうじ)としました。 寺には伊豆長八(いずのちょうはち)(入江長八)作と伝わる鏝(こて)絵「天人図」1対が残されています。 (注1)1棟の家、1軒 (注2)法華三昧を修する道場 出典 寺資料、『三島市誌 下巻』p.590、企画展『きたうえ村』 妙法華寺(みょうほっけじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・玉沢)この寺は日蓮宗本山で、日蓮大上人(にちれんだいしょうにん)第1の弟子、大成弁日昭上人(たいじょうべんにっしょうしょうにん)によって、およそ700年前に鎌倉で建てられ、その後、越後(えちご)、伊豆加殿(かどの)村を経て元和7年(1621)、この地に移転され大成されました。その移転に尽力したのが徳川家康側室(そくしつ)で水戸光圀公(みとみつくにこう)の祖母にあたる養珠院(ようじゅいん)お万の方、英勝院(えいしょういん)お勝の方、そして江戸城を築いた太田道灌(おおたどうかん)の子孫の資宗(すけむね)でした。さらに全国末寺(まつじ)80余りの寺や徳川幕府による協力も大きかったようです。 当時の建物の様子は、総門、仁王門(におうもん)を経て正面に18間(約33m)四方の大本堂(八日堂)(ようかどう)、大中鐘楼(しょうろう)、五重の塔、経蔵(きょうぞう)、三光堂、奥の院、右側に大客殿、祖師堂(そしどう)、大中書院、大小庫裡(くり)、周囲に24の塔中(たっちゅう)寺院など、およそ240棟(むね)の雄大壮麗な寺の景観を誇ったものですが、惜しいことに170年後、寛政3年(1791)の大火により、わずか数戸の建物を残してほとんど焼失してしまいました。現在の伽藍(がらん)は百数十年前に、第41世日桓上人(にちかんしょうにん)(注1)によって再建されたものです。 スギやマツの古木に囲まれた境内は、およそ2万坪(6.6ha)あり、重厚な石垣に名勝百間塀(ひゃっけんべい)を巡らして風格ある昭光門(注2)法殿(ほうでん)(本堂)、祖師堂、大書院、大庫裡、宝物館、さらに駿府(すんぷ)城内にあったお万の方の居間を移築した奥書院などが建ち並んでいます。 表、中、奥の広壮な3庭園には四季折々の花が絶えず目を楽しませてくれます。また、菩提樹(ぼだいじゅ)や沙羅双樹(さらそうじゅ)などの聖樹(せいじゅ)もあり、より一層清雅さを増し京都の寺のような優雅さがあると言われています。 所蔵品としては、鎌倉時代の「日蓮上人説法図」、「絵曼陀羅」(えまんだら)、日蓮直筆の「註(ちゅう)法華経十巻」、「撰時抄(せんじしょう)五巻」などの国の重要文化財があり、その他にもたくさんの宝物があります。 (注1) 高僧であると同時に、優れた俳人でもあり、一瓢と名のり小林一茶が師事したと言われています。 (注2) 平成7年(1995)、突風によりサクラの大樹が倒れ、倒壊したため、平成11年(1999)4月に再建されました。 出典 『三島市誌 中巻』p.782、『Welcome to ふじのくに 三島』p.101 本覚寺(ほんがくじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・泉町)応永31年(1424)、伊豆国分寺跡に日出上人(にっしつしょうにん)により建てられた日蓮宗の寺です。日出上人は名僧として名高く、伊豆一円を教化し、後に鎌倉に東身延妙巌山(ひがしみのぶみょうげんさん)本覚寺を建立(こんりゅう)しました。 第2代日朝上人(にっちょうしょうにん)は日蓮宗の本山、身延山久遠寺(くおんじ)第11代の法主(ほっす)となりました。 江戸時代には七堂伽藍(しちどうがらん)が立ち並び、現在の三島市立公園楽寿園敷地内に七面堂(しちめんどう)(注)を持ち、10余の末寺(まつじ)と檀家(だんか)千数百戸を持つほどの大寺院でした。 明治23年(1899)、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)が楽寿園に別邸を建てるとき、寺領を献上しました。 眼病守護の聖人(しょうにん)として知られ、「日朝さん」と親しみを込めて呼ばれている日朝上人の祈祷祭(きとうさい)が、毎月24日に日朝堂で行われます。 境内(けいだい)に『五畿内志』(ごきないし)の編者、並河五一(なみかわごいち)の墓があります。 → 伊豆国分寺・国分尼寺、並河五一 (注) 日蓮宗の守護神七面天女を祀る 出典 『三島市誌 下巻』p.574、『ふるさと三島』p.220、寺資料 伊豆国分寺 (いずこくぶんじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)・泉町)もとの伊豆国分寺は、奈良時代、聖武(しょうむ)天皇の命により奈良の東大寺を総国分寺として諸国に建てられた公(おおやけ)の寺の1つでした。その時代は凶作が続き、地震などの天災もあり世情が不安定だったため、仏の力を借りて人々の不安を取り除こうと国ごとに国分寺が建てられました。 大変大きな伽藍(がらん)だったと伝えられていますが平安初期に焼失し、現在では礎石だけが残っています。昭和34年(1959)に、聖武天皇建立(こんりゅう)国分寺として国の史跡に指定されました。現在残っている8つの礎石は、大伽藍(だいがらん)の七重の塔の跡です。 同じ場所に建てられている現在の伊豆国分寺の宗派は日蓮宗で、むかし蓮行寺(れんぎょうじ)と称されていた寺を改名したものです。 → 伊豆国分寺・国分尼寺 出典 『三島市誌 下巻』p.573、『Welcome to ふじのくに 三島』p.91 妙行寺(みょうぎょうじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)・日の出町)この寺の本山は、日蓮宗身延山久遠寺(くおんじ)ですが、玉沢の妙法華寺との縁が深く、貞治(じょうじ) 3年(1364)1月に亡くなった日国(にっこく)聖人の開山によるものです。寺の山門は楽寿園が小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)の別邸であったときの表門を、昭和24年(1949)10月に移転したものです。宝塔山(ほうとうさん)の山号額がかかり、柱に鉄鋲(てつびょう)を打ってあり大変いかめしく風格が感じられます。 寺の境内は緑も多く良く整備されています。本堂左手、山門寄りの墓地には、名高い漢学者の福井雪水(せっすい)の墓があります。 出典 『三島市誌 下巻』p.580、『ふるさと三島』p.100 圓明寺(えんみょうじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)・芝本町)この寺の宗派は日蓮宗(にちれんしゅう)で、康永3年(1344)将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)の叔父にあたる日静上人(にちじょうしょうにん)が法華堂(ほっけどう)として建立(こんりゅう)し、文明11年(1479)日澄上人(にっちょうしょうにん)によって開山されました。この寺は明治10年(1878)3月、柿田屋火事で類焼しました。そのため同年、三島にあった樋口本陣の正門を山門として移築しました。 また、第37代住職日空上人(にっくうしょうにん)のころ、この寺にいた親犬と5匹の子犬の話は「孝行犬の話」として有名です。 → 孝行犬の話 出典 『三島市誌 下巻』p.575、『Welcome to ふじのくに 三島』p.93 本妙寺 (ほんみょうじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・大社町)文安 (ぶんあん)5年(1448)に日泰(にったい)上人が、その師京都妙満寺本山13世日延(にちえん)上人菩提(ぼだい)のために開いた日蓮宗の寺です。日泰上人は上総(かずさ)七里法華の基を開いた人で、この寺が根本道場となっているそうです。 寺の本堂の屋根は、他の寺と趣きが違って、軒(のき)が反り上がるのではなく、真っ直ぐ延びて丸みを帯び、風害に強いそうです。本堂正面を飾る彫刻も立派で、三嶋大社の飾り物を彫った彫物師の流れをくむ者の作と言われています。 出典 『三島市誌 下巻』p.580、『ふるさと三島』p.104 耕月寺(こうげつじ) (曹洞宗(そうとうしゅう)・佐野)三島市佐野の北部、裾野市との境界になる境川のほとりにある耕月寺は、佐野地区唯一の寺です。初めは真言宗の小庵(しょうあん)でしたが、慶長年間(1596〜1615)に、優天守曇和尚(うてんしゅとんおしょう)が甲賀民部(こうがみんぶ)の宅跡に開山、曹洞宗を唱(とな)えました。裾野市桃園の定輪寺(じょうりんじ)の末寺(まつじ)で、本尊は十一面観世音です。耕月寺は、佐野だけでなく元山中、小沢(こざわ)、萩にも檀家(だんか)をもっており、これらの地域間の交流が伺われます。門を入るとすぐ左手には、地元の人たちが建てた六地蔵が並んでいます。 佐野にはかつて、長徳寺(ちょうとくじ)、高鎮寺(こうちんじ)、法泉寺(ほうせんじ)、大行院(だいこういん)もありましたが、天正(てんしょう)18年(1590)、秀吉の小田原城攻めの兵火に遭(あ)い焼失してしまいました。 出典 『三島市誌 上巻』P.609、P.677、『三島市誌 下巻』p.591 常林寺(じょうりんじ)(曹洞宗(そうとうしゅう)・本町)天正(てんしょう)元年(1573)開創の曹洞宗(そうとうしゅう)の寺で、開山(かいさん)は麒庵東麟大和尚(きあんとうりんだいおしょう)で、本山は永平寺、総持寺です。法堂(はっとう)には本尊として聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が祀(まつ)られています。現法堂は、昭和5年(1930)の北伊豆地震の直後に再建立(こんりゅう)され、三門(さんもん)(注)とともに木造の建築物として大変貴重なものです。 三門を入って右手、白瀧観世音菩薩(しらたきかんぜおんぼさつ)の祀られている白瀧観音堂は、駿豆両国・横道観音霊場第1番札所(ふだしょ)として深い信仰を集め、毎月18日の縁日には例祭が行われています。 また、毎年2月の節分に行われる節分大般若会(だいはんにゃえ)には、豆まきと大祈祷(きとう)が盛大に行われ、参拝者でにぎわいます。 (注) 本来は、大きな中央の門と左右の門と3つ重ねて1門としたもの 禅寺の仏殿前にある門 山門とほぼ同様に使われることもある → 白瀧観音 出典 寺資料 『三島市誌 下巻』p.574 法華寺(ほっけじ) (曹洞宗(そうとうしゅう)・東本町1丁目)この寺の宗派は曹洞宗で、奈良時代に建てられた大寺院「大興寺」(だいこうじ)の跡だと言われています。大興寺が代用「国分尼寺」となり、国分尼寺は「法華滅罪之寺」と言われたことから法華寺の名が残りました。 源頼朝と関係の深い寺で、現在境内に頼朝の腰掛け石、頼朝の衣掛(きぬか)け松、頼朝の経塚(きょうづか)などが残っています。三島をよく往来した頼朝は源氏の旗挙げ成就(じょうじゅ)をこの寺にも祈願し、写経を奉納したと言われています。現在、経塚跡には地蔵尊が安置されています。 また、古くから、この寺と三嶋大社との関係は深く、昭和20年(1945)の終戦まで、毎年元旦に、この寺の住職が三嶋大社の神殿に昇り、読経し天下泰平を祈祷(きとう)した、と伝えられています。 → 古代の大寺院 出典 『三島市誌 下巻』p.578、『ふるさと三島』p.127 『Welcome to ふじのくに 三島』p.103、 宗徳院 (そうとくいん)(曹洞宗(そうとうしゅう)・松本)この寺は延喜(えんぎ)元年(901)ごろ、弘法大師(こうぼうだいし)(空海)(くうかい)が当地に霊夢(れいむ)(注)を感じて、延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)を本尊とした堂一宇(いちう)を建立したのが始まりです。当時、伊豆88カ所霊場の第18番として巡礼が多く、平成12年(2000)現在も、本尊の横に弘法大師(こうぼうだいし)の木像が安置されています。 源頼朝が永暦(えいりゃく)元年(1160)3月、蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されてから、治承(じしょう)4年(1180)伊豆に挙兵するまで、100日間の祈願を立て、三嶋大社に日参するとともに、この寺の本尊、延命地蔵菩薩を旗挙げの祈願仏として日夜詣(もう)でました。本尊の横に源頼朝の木像、参道に祠(ほこら)があります。 その後、天正(てんしょう)(1573〜1592)の初期、甲斐(かい)武田の残党道乗(どうじょう)、道吉(どうきち)の2人が当地に住み、土地開拓に専念していましたが、追手が来ることを知り、当寺の境内で相自刃(あいじじん)しました。墓地入り口に道乗、道吉の墓があります。 村人たちは2人の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うことと、荒廃(こうはい)する当寺を復興することを、韮山村南條の昌渓院(しょうけいいん)第6世麒庵東麟(きあんとうりん)禅師(ぜんじ)に懇請(こんじょう)し、同禅師が開山(かいさん)となり、寺を曹洞宗(そうとうしゅう)に改め、現在に至っています。 (注) 神仏のお告げがある不思議な夢 出典 寺資料、『三島市誌 下巻』p.588、『ふるさと三島』p.18、 宗閑寺(そうかんじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・山中新田)この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和(げんな)年間(1615〜1623)であろうと推定されています。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立(こんりゅう)しました。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城しましたが、このときの北条方の副将が間宮康俊でした。 お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔(とむら)うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀(まつ)り、供養するためにこの寺を創建したと言われています。 寺の境内には、主将松田康長(まつだやすなが)、副将間宮康俊、信俊、信冬の一族、豊臣方の勇将一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)などの墓があります。 また、寺の裏側の墓地には、かくれキリシタンの墓と伝えられる墓碑も見られます。 出典 『三島市誌 下巻』p.586、『ふるさとのしおり みしま』p.26、『三島市教育委員会 説明文』 願成寺(がんじょうじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・川原ヶ谷)この寺の宗派は浄土宗で、源頼朝が三嶋大社に百日祈願(ひゃくにちきがん)(注1)をしたときの宿舎となり、祈願成就(じょうじゅ)によって天主君山(てんしゅくんざん)願成就寺(がんじょうじゅじ)の寺号を賜(たまわ)ったと伝えられています。開山(かいさん)(注2)は、口伝(くでん)に清安(せいあん)上人と言われています。 参道を登り詰めた右側に海上の安全と豊漁を祈願して、浪切(なみき)り不動尊が祀られていて、境内には樹齢300年以上の大きなクスノキがあります。 また、寛永年間(1624〜1644)以降、三嶋大社宮司(ぐうじ)である矢田部家の帰依(きえ)(注3)を受けました。当時は神官の家であっても、死者の供養(くよう)のために菩提寺(ぼだいじ)(注4)を必要としたため、矢田部家は、特に願成寺護持(ごじ)(注5)には力を注ぎました。明治以降は神仏分離政策(注6)によって、矢田部家の葬送儀礼等をとり行うことはなくなりました。しかし現在でも矢田部家をはじめ社家(しゃけ)(注7)一族の祖先の供養をしています。 (注1) 100日間、同じ社寺に願いごとがかなう(成就する)よう参詣(さんけい)(祈(いの)る)すること (注2) 寺院の創始者、または、宗派の祖 (注3) 神・仏などすぐれた者に服従し、すがること (注4) 一家が代々帰依して葬式・追善供養などを営む寺 (注5) 守り保つこと (注6) 慶応4年(1868)3月維新政府が、祭政一致の方針に基づき、神道と仏教の融合調和を廃止にした政策 (注7) 世襲神職(せしゅうしんしょく)の家筋(いえすじ) 出典 『三島市誌 下巻』p.581 『Welcome to ふじのくに 三島』p.95 長圓寺 (ちょうえんじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・芝本町)この寺の宗派は浄土宗で、大永(たいえい)2年(1522)、現在の中央町に建てられたものですが、後に今の芝本町に移ったと言われています。この寺の山門は世古本陣の正門を移築したと言われ、世古家の墓が境内にあります。 出典 『三島市誌 下巻』p.575、『Welcome to ふじのくに 三島』p.99 蓮馨寺(れんけいじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・広小路町)この寺の宗派は浄土宗で、昔、寺の裏に蓮沼池(はすぬまいけ)という大きな池があり、蓮の花の香りのする寺という意味から蓮馨寺と名付けられました。しかし現在この池はありません。 山門を入ると、すぐ右側に松尾芭蕉(ばしょう)の墓があり、「いざともに ほむぎくらわん くさまくら」と芭蕉の句が刻まれています。この寺の住職が芭蕉の弟子だったという縁で墓が建てられました。 芭蕉の墓のすぐ近くには、水子(みずこ)地蔵尊と子安(こやす)地蔵尊が建てられています。境内の中心には、日限(ひぎり)地蔵尊が安置されています。日限地蔵尊は、日を限って願いごとをすると御利益(ごりやく)があると伝えられています。また、子安地蔵尊は安産、子育ての地蔵として知られています。出産前に穴のあいたひしゃくをお供(そな)えすれば安産になると言われ、出産後に穴のない普通のひしゃくをお供えすると、生まれた子が丈夫に育つと言い伝えられています。 境内の奥には、聖徳太子を祀ったお堂が、三島の職人組合の人々によって大正11年(1922)に建てられました。聖徳太子は仏教を広め、各種技術を伝えた人たちを育てた人として知られ、職人たちの守り本尊としての信仰も集めています。 出典 『三島市誌 下巻』p.574、『Welcome to ふじのくに 三島』p.109
→ 蓮馨寺、本覚寺 出典 『ふるさと三島』p.167、『三島いまむかしT』p.171 林光寺(りんこうじ) (浄土宗(じょうどしゅう)・加屋町)この寺の宗派は浄土宗で、開山(かいさん)した故信(こしん)上人は、甲斐(かい)の国の武将、武田信玄の子信景(のぶかげ)(勝頼の異母弟)でした。信景は、母親のたっての願いに応(こた)えて弘治(こうじ)3年(1557)に得度(とくど)(注1)し「故信」と称して、はじめは遠州(えんしゅう)相良(さがら)の林光寺に入りました。 天正(てんしょう)2年(1574)三島に小庵(しょうあん)を建てて念仏(ねんぶつ)説法をしていました。翌3年武田勝頼が、三河で織田・徳川の連合軍に敗れ、武田家は退勢の一途を辿(たど)るはめになってしまいました。翌年になって、武田家の家臣たちは再興を願いましたが、故信上人は、仏の教えを諭(さと)し、再興への思いを留まらせました。上人に諭された家臣たちは思い直してそのまま三島に留まり、天正5年(1577)皆で茅町(かやまち)(現、加屋町)に本堂を建立(こんりゅう)し、林光寺と称しました。 寺は、東海88カ所の第70番の観音霊場札所(ふだしょ)であり、境内の右側に西国(さいごく)33カ所の観音様の石像が祀(まつ)ってあります。 境内には開山・故信上人の墓をはじめ歴代上人の墓が並び、武田信玄の孫と伝えられる神沢義発公(かんざわよしほっこう)の墓があることでも知られています。また、欧州の画壇に異彩を放ち、英国王立美術協会の初外国人会員となった栗原忠二画伯の墓など著名人の墓も多くあります。 さらに、近郷を巡回し念仏講を広めた唯念上人(ゆいねんしょうにん)や、徳本行者(とくほんぎょうじゃ)、木喰観正上人(もくじきかんしょうしょうにん)の石碑などもあります。 寺宝としては、「善導大師(ぜんどうだいし)・法然上人(ほうねんしょうにん)縁起(えんぎ)」、脇侍菩薩(わきじぼさつ)の蒔絵(まきえ)のある厨子(ずし)に納められた安阿弥(あんあみ)作「阿弥陀如来像」(あみだにょらいぞう)、故信上人直筆の「称名号(しょうみょうごう)掛軸(かけじく)」、法然上人の起請文(きしょうもん)の写書(共に金泥書(きんでいしょ)(注2))、唯念上人直筆の掛軸等が所蔵されています。 (注1) 髪を剃(そ)って仏門(ぶつもん)に入ること (注2) 金粉をにかわでといたものを使って書かれたもの 出典 『三島市誌 下巻』p.932、『Welcome to ふじのくに三島』p.107、、『林光寺パンフレット』『北豆組の念佛寺』p.1 歓喜寺(かんきじ) (臨済宗(りんざいしゅう)・徳倉)この寺の宗派は臨済宗で、本尊は11面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を祀(まつ)っています。法周禅師大和尚(ほうしゅうぜんじだいおしょう)が寺廓(てなぐら)(注)に創立し、元禄11年(1698)に現在地に移されました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのときに焼かれ、後に僧易甫(えきほ)が再建したと言われています。 この寺の境内には延命地蔵尊が安置されています。今から140年ほど前、寺に集まっていた人たちが、何かに導かれるように本堂を出て、境内の地蔵堂に向かって歩いていった後、ゴーッと音がして裏山が崩れ始め、大量の土砂で本堂、庫裡(くり)ともに埋められました。幸いにも、地蔵堂に集まった人たちは全員無事で、これはきっと地蔵さんが守ってくれたのだということから、延命地蔵さんと呼ばれるようになったという昔ばなしが伝えられています。 昔、この寺に伊豆長八(いずのちょうはち)(入江長八)が滞在して、鏝絵(こてえ)を描いたと伝えられ、彼の作品が数多くあります。 また、墓地には、信州高遠(たかとう)から石工(いしく)として出稼ぎで徳倉に滞在し、龍澤寺開山の1人である「東嶺和尚(とうれいおしょう)の碑」(長泉町納米里(なめり)にある長泉町指定文化財)をつくったり、龍澤寺の仕事を主としてやっていたと思われる北原数右衛門(きたはらかずえもん)(享年37歳)の墓があります。 (注) 現在の徳倉小の辺り 出典 『三島市誌 下巻』p.590、広報みしま(594号)p.1、『石と生活展』p.27 蔵六寺(ぞうろくじ) (臨済宗・御園(みその))この寺の宗派は臨済宗円覚寺派(りんざいしゅうえんがくじは)で、天文(てんぶん)元年 (1532)に正厳和尚(しょうげんおしょう)により開山されました。 正厳和尚は、戦国大名後北条氏の家臣、笠原新六郎政尭(まさたか)で、現在の清水町徳倉(とくら)にあった徳倉城の城主でした。新六郎は武田勝頼(かつより)に一時降(くだ)っていましたが、後に出家して名を蔵六坊と改め、この寺を建てました。山号は亀霊山で、亀のごとく、頭、手足、尾をかくす(蔵)意味から名付けられたと考えられています。 現在、この寺では、毎年の夏休み、冬休みに「子どもざぜん会」を開いています。親子とも参加できて、座禅(ざぜん)、お話、紙芝居などがあり、夏は流しそうめん、冬はお汁粉が準備されています。 また、境内では、子どもたちがボール遊びなどをして楽しく遊んでいる姿をよく見かけます。 出典 『亀霊山蔵六寺の由来』、『三島市誌 下巻』p.589、 龍澤寺(りゅうたくじ) (臨済宗・沢地(さわじ))臨済宗(注1)妙心寺派(みょうしんじは)の寺で、白隠禅師(はくいんぜんじ)により宝暦11年(1761)9月に開山されました。境内には本堂、庫裏(くり)、禅堂、経堂(きょうどう)、鐘楼、不動堂、開山堂等が建っており、このうち経堂及び山門は江戸時代の豪商白木屋の寄進と伝えられています。開山堂内には白隠、東嶺(とうれい)、星定(せいじょう)、玄峰(げんぽう)の4老師像が安置されており、そのうち星定老師像は鏝細工(こてざいく)の名工、伊豆の入江長八の作として知られています。 龍澤寺住職は代々老師として称えられ、多くの雲水(うんすい)の修行を導くとともに、日本全国から各界名士の来訪を受け、仏法(ぶっぽう)の教えを説いています。特に初期の白隠老師や東嶺老師、明治初期ごろの星定老師、大正、昭和期の玄峰老師は名僧として広く尊敬されており、明治維新のころには山岡鉄舟が星定老師のもとに参禅しました。また、終戦前後には、当時の首相鈴木貫太郎をはじめ、政界の大物が玄峰老師の助言を求めてしばしば来訪しました。戦後はイスラエル、アメリカ、ドイツ、フランスなどからも修行者が訪れています。 平成12年(2000)現在、中川球童老師のもと約20名の修行僧たちが明け方3時半には起床、夜眠っている間も修行のうちといわれる厳しい修行生活を送っています。また、7の付く日には三島市内、2の付く日には沼津市内を「報恩(ほうおん)」と唱えながら、托鉢(たくはつ)して歩く僧の姿を見かけます。 紅葉の季節、毎年11月23日(祝日)の観楓祭(かんぷうさい)には、寺所蔵の掛け軸等の虫干しを兼ねて内部の−般公開が行われます。白隠老師をはじめ、一休、良寛、円山応挙、俵屋宗達、山岡鉄舟などの書や絵が本堂の各部屋にびっしり並んで掛けられるので、それらを見ようとたくさんの人々が訪れます。裏山には野点の席が設けられ、紅葉の木の下で抹茶をいただきながら静かなひとときを楽しむことができます。 寺では毎月下旬に約1週間、接心(注2)があるため、境内への立ち入りは禁止となります。 (注1) 禅宗の一派。臨済宗と曹洞宗があり12世紀に中国から伝わった。教旨は仏教の真髄は坐禅によって直接体得されるものであるとする。 (注2) 禅宗で一定期間、昼夜を問わず坐禅に専念すること。 出典 『三島市誌 下巻』p.590、p.923、『Welcome to ふじのくに 三島』p.105 「今白隠」といわれた
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禅僧 慶応2年〜昭和36年 (1866〜1961) |
宗派 |
寺院名 |
所在地 |
日蓮宗
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遠成寺 松雲寺 法善寺 覚林院 妙法華寺 真立寺 本覚寺 伊豆国分寺 妙行寺 圓明寺 本妙寺 受法寺 妙隆寺 妙泉寺 通猛寺 蓮久寺 |
幸原 三ッ谷新田 市山新田 玉沢 玉沢 川原ヶ谷 泉町 泉町 日の出町 芝本町 大社町 谷田小山 谷田 谷田夏梅木 竹倉 御園 |
曹洞宗 |
耕月寺 宗福寺 長泉寺 松岩寺 医王寺 正眼寺 宝光寺 常林寺 法華寺 宗徳院 |
佐野 塚原新田 谷田 谷田 中 竹倉 川原ヶ谷 本町 東本町 松本 |
浄土宗 |
誓縁寺 宗閑寺 一柳院 願成寺 長圓寺 蓮馨寺 林光寺 誓願寺 真明院 光明寺 |
沢地 山中新田 笹原新田 川原ヶ谷 芝本町 広小路町 加屋町 北田町 中島 大場 |
臨済宗(円覚寺派) |
歓喜寺 吉祥寺 周福寺 持珠院 梅龍寺 蔵六寺 開田院 |
徳倉 平田 鶴喰 安久 梅名 御園 大場 |
宗派 |
寺院名 |
所在地 |
臨済宗(妙心寺派) |
龍澤寺 心経寺 禅叢寺 田種寺 |
沢地 大宮町 玉川 多呂 |
臨済宗(建長寺派) |
宝鏡院 福聚院 長福寺 |
川原ヶ谷 北田町 安久 |
臨済宗(大徳寺派) |
祐泉寺 |
大社町 |
時宗 |
西福寺 光安寺 田福寺 |
大宮町 日の出町 谷田(塚の台) |
高野山真言宗 |
薬師院 泉福寺 |
大社町 長伏 |
天台宗 |
普門院 |
塚原新田 |
真宗(大谷派) |
成真寺 |
大社町 |
浄土真宗(本願寺派) |
善教寺 長照寺 |
加屋町 徳倉 |
出典 『三島の現況図』
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