古くから三嶋大社の祭りは「大社の祭り」とか「お明神(みょうじん)さん」とか親しみ深く語られ、地域の年間行事のいくつかが、三嶋大社の年中祭事と重ねて行われてきました。例えば、初詣(はつもうで)は村の氏神に参拝するだけでなく、三嶋大社に参詣(さんけい)する習慣を持つ人が今でも多くいます。つまり、三嶋大社の祭礼そのものを地域の年間行事とすることは、三島の人々だけでなく、近郷(きんごう)近在(きんざい)の広い地域の人々の共通した考えがあったと思われます。 |
新年を寿(ことほ)ぎ「今年こそ」と1年の計を神に祈ります。雅楽(ががく)を奏し、神楽(かぐら)「八乙女(やおとめ)の舞」を奉納します。三嶋大社の初詣(はつもうで)の人出は、およそ50万人といわれ毎年静岡県一です
三嶋大社で行われる田遊び(耕田の儀式を芸能化した田楽能(でんがくのう))で、社家(しゃけ)(注)の人々が奉仕し農耕の過程を演ずるもので、誰でも見られます。演技する場所は境内の舞殿で、中央に水田に見立てた薄縁(うすべり)を敷き、舅(しゅうと)の「穂長(ほなが)」と婿(むこ)の「福太郎」の対話と所作(しょさ)で演目が進められます。
お田打ちの始まりは、鎌倉時代とも室町時代とも言われており、昭和47年(1972)県の無形文化財に指定されています。7日正月のこの日、参会者には最後に餅を投げて終わります。今でも近在から100俵(6,000kg)以上の米が寄進されるそうです。
(注) 神職にたずさわる家柄
無病息災(むびょうそくさい)を祈る行事として戦後行われるようになりました。左義長祭は、サイの神の祭りの呼び名のひとつです。
年の初めに世の邪悪(じゃあく)を討ってお祓(はら)いをして、人々の悪病退散を祈る古式豊かな神事です。
神事の後、射ぬかれた大的には、災難よけの御利益があると信じられ、拝観者がお守りとして破り取り、家に持ち帰る習慣が今も残っています。
主として邪気を払い災厄(さいやく)を防ぐ行事として立春の前日に行われます。
三嶋大社では、参拝者が持って来た豆を拝殿に向かってまきながら「福は内」と唱え参拝します。境内の舞殿で著名人や高齢者を年男とする豆まきが行われます。このとき、拾った豆袋(福袋)は家に持ち帰り、神棚に供えた後に皆で食べます。
仕立職(したてしょく)の人が、使い古した針を豆腐やこんにゃくに刺し立て「淡島さま(淡島神社)」に供えて、縫い針への感謝や裁縫(さいほう)の上達を願いました。現在でも、服装関係の人々が集まり、祈願の祭りを行っています。
女児の健康を祈る行事として行われます。
「花鎮(はなしず)め祭」といわれる鎮花祭が4月9日におこなわれます。草木が一斉に芽をふく4月上旬は、古来疫病が流行する季節といわれます。この鎮花祭は、疫病鎮護(ちんご)災難よけを御祈念するお祭です。花祭り期間中の3日と5日に稚児(ちご)行列(ぎょうれつ)が行われます。夜は境内がライトアップされ夜桜見物でにぎわいます。
古くは月の中の酉の日に行われ、明治までは大祭として、市の立つにぎわいであったそうですが、現在は春に五穀豊饒(ごこくほうじょう)(注)を祈り、秋には新穀(しんこく)感謝の祭りを行っています
(注)米、麦、粟,きび、豆の5種の穀物が富んで豊かなこと
三嶋大社で命名した子供の健康を祈願します。
祓戸神社(浦島神社)の鳥居に、茅(かや)を竹の芯の周囲に巻きつけて作った大きな輪をくくりつけます。これは「茅(ち)の輪」といい、参道に設置してこの輪を参拝者が左右に回り輪をくぐって、神社に参拝すると病気にならないとか、厄(やく)を落とすなどと信じられています。
境内の御神木であるキンモクセイの満開時に、樹霊をなごめるため、伝統的な雅楽(ががく)、舞楽(ぶがく)、能楽(のうがく)などが奉納されます。
三嶋大社の祭事では、7歳は女児の紐解(ひもとき),5歳は男児の袴着(はかまぎ)、3歳は男女共髪置(かみおき)を神事と規定していますが、一般的には子供の成長と無事を祝って参拝する家族が多いようです。
商売繁盛(はんじょう)と招福(しょうふく)を願って恵比寿(えびす),大黒の二神を祝い祀る行事です。古老の話として、恵比寿、大黒を祀る神棚の向きは「みなこい、みなこい」で南、「きたかい、きたかい」で北と、どちらもお金が入ってくる縁起の良い方向だそうです。
現在では、境内の一角で「えびす講投げ市」が、市内の商店や工場が出店を作って行い、野菜市もあって年々にぎやかになっています。
防災、健康を祈願する祭りであり、1年の終わりに日常生活で知らず知らずに犯した罪やけがれを、人形(ひとがた)に託して払い清めてもらい、新しい年を迎える準備をします。
除夜の鐘が鳴って、ドンドンと大社の大だいこがなるころ、境内は参詣(さんけい)する人で一杯になります。
出典 『三島市誌 増補』p940
梯子のり | シャギリ |
浦安舞 |
三嶋大社の例祭日であり、市民にとっては「大社の夏まつり」の日です。古くから「明神様のお祭り」として近在の人々にも親しまれた祭りです。3日間の祭りの催し物の中には、「手筒(てづつ)花火」や浦安舞(うらやすのまい)などの三嶋大社に残る伝統的な芸能や、昭和59年(1984)に復活した武田流「流鏑馬(やぶさめ)」の古式豊かな馬術や「頼朝公旗挙げ行列」、「梯子(はしご)のり」、「農兵節」、「みしまサンバ」と数多くの催しが行われます。しかし、夏祭り最大の催しは各町内持ち回りの「山車(だし)引き回し」と、その山車台上で囃(はや)す「シャギリ」と大鳥居玉垣前で行う「子供シャギリ」であり、市民参加の伝統芸能の披露として意義のあるものです。
また、夜は1,500個の御神灯(ごしんとう)が点火され、境内や旧東海道にぎっしり立ち並ぶ露店も昔から有名です。
三島のシャギリは、戦国時代、小田原北条氏の時代である天文(てんもん)年間(1532〜1554)に、三嶋明神の舞役であった幸若與惣太夫(こうわかよそうだゆう)によって現在に伝わる原型が作られたと言われています。シャギリの語源は、狂言や歌舞伎の囃子(ニギヤカ)という意味などいろいろ挙げられていますが、元々は戦国時代に武士の士気高揚、娯楽として、鳴り物を盛んに打ち鳴らしたのが始まりと言われています。
天正11年(1583)の文書によると、川原ヶ谷郷、谷田郷、大場郷、梅名郷、柿田郷に対して「三嶋宮のお囃子は、先の御代(みだい)から定め置かれてあるのに、難滞(なんたい)している様で不都合である。これからは古来の様に催す様申し付ける」とありますが、その後、三島周辺農村の若者たちに受け継がれ、400有余年の間、楽譜は無く、人から人へ手から手へと伝えられてきました。
シャギリの曲調は、昇殿(しょうでん)、荷崩し、四丁目(しちょうめ)、速(はや)、大間(だいぜん)、屋台、鎌倉、切り囃子と8曲ありますが、楽譜が無かったため、大間の演奏は伝承されておらず、現在は雷電(らいでん)が演奏されています。はやし詞(ことば)には「ソレソレ」「ソリャソリャ」「コリャコリャ」「オー」「ヨー」「コラショイ」「コラコラ」「ソラソラ」などがあり、囃子方と称する係が大勢で、囃子の間合いにかけています。
お囃子の曲調は、里囃子、道囃子、山囃子、松囃子、吉野囃子、時雨(しぐれ)囃子、祗園(ぎおん)囃子と7曲ありますが、三嶋大社の夏祭りにはシャギリを中心に演奏しているのが現況ですので、曲名だけが残り演奏不可能な曲もあります。現在は、吉野囃子、松囃子、祗園囃子しか伝承されておらず、シャギリとお囃子の区別は、曲調そのものに明確に表れており、演奏される場面も異なっていたといわれています。すなわち、お囃子は、シャギリのテンポのよさに対してゆっくりとした曲調であり、優雅さをたたえています。
このシャギリとお囃子を総称した「三島囃子」は、昭和42年(1967)に、市の無形文化財に指定され、平成3年(1991)に、県の無形民俗文化財の指定を受けています。現在、三島囃子保存会の中心である川原ヶ谷の三島囃子は、9月23〜25日の川原ヶ谷天神社に奉納されます。また、保存会メンバーは、ハワイ百年祭の昭和60年(1985)にはハワイで、平成6年(1994)には、姉妹都市パサディナのローズパレードで、演奏を披露しました。シャギリの「チャンチキ、チャンチキ」という軽快なテンポは、アメリカの人たちにも大好評なようです。
芸能を行う人の平均的な構成
1.シャギリ
大太鼓(おおどう) 1人 |
小太鼓(こどう) 2人 |
篠笛(しのぶえ) 1〜2人 |
摺鉦(すりがね) 5〜10人 |
(ひょっとこ面) (1人) |
囃子方(はやしかた) 多数 |
2.おはやし
大太鼓 1人 |
小太鼓 2人 |
篠笛 2人 |
小鼓(こづう) 2人 |
大鼓(おづう) 2人 |
三味線 2人 |
囃子方 多数 |
芸能を行う人の服装、持ち物など
芸能を行うときは、染め抜き揃いの豆しぼり手ぬぐい鉢巻き、浴衣、三尺、白足袋はだし、たすきなどによる祭り装束となります。持ち物の提灯(ちょうちん)は、所属する町内会の役割や年齢などによって違います。たとえば、総代、組頭が丸型提灯、大中老、中老がナツメ型提灯、老中、若衆が長提灯(弓張り提灯という)をそれぞれ各1個ずつ手に持ちます。
出典 『三島囃子』(三島市教育委員会)、『三島バヤシ』(郷土資料館)
寛文(かんぶん)9年(1669)、三島の宿中(しゅくちゅう)祈祷(きとう)のため、初めて宿内(しゅくない)に山車の引き回しが行われました。宿内の山車の引き回しは当初ルールを持たなかったので、文化13年(1816)に祭礼の当番町は18の町を4組に分け、当番町の組を定めました。宿中祈祷のためには、川原ヶ谷や柿田など周辺地域の人たちが「シタカタ」として山車に乗り、シャギリを演奏し、町衆はその屋台を引いたものと思われます。今ではシャギリの演奏は、各町内で受け持つところが多くなっています。また山車の引き回しは、今でも旧市街地に限られています。
現在では、8月15日午後に三嶋大社社頭(しゃとう)で神事を行った後、当番町の山車はお祓(はら)いを受け、それぞれ、「神楽(かぐら)昇殿(しょうでん)」を奉納演奏します。その後、三島市街の引き回しに向かいますが、山車同士がかち合うと「けんか囃子」で勇壮な競(せ)り合いとなりました。しかし、これがエスカレートしていったため、今は、互いにかち合わないコースを決めています。夜になると、当番町のすべての山車が社頭に集まり、ここで競り合いを行います。祭りを最大限に盛り上げる競り合いの後、山車は、「戻り囃子」を演奏しながらそれぞれの町内に引き上げて行きます。
出典 『三島囃子』
また、このころは経済の高度成長期にあたり、三嶋大社の例大祭が町内単位から商工会議所、市などが運営する夏祭りへと変化していきました。そんな中で昭和43年(1968)緑町では、小学校5、6年生の子供たちを中心に、有志によるシャギリの指導が行われました。
やがて、昭和50年(1975)から、三島青年会議所の人たちの手によって「守り伝えよう三島囃子(みしまばやし)、素晴らしい郷土芸能を守り伝えていくのは、子供たちです。」というテーマを設定して、地道な保存活動が始められました。昭和52年(1977)、大社の社頭で市内小学生(三子連)(注)の合同シャギリが行われ、その後、毎年大社の夏祭りの3日間「子供シャギリ大会」が行われるようになりました。今では、市内の子供会だけではなく、近在の子供会も参加して盛大です。
(注)三島市子供会連合会
出典 『三島囃子』
頼朝公旗揚げ行列 三島の夏祭りを盛り上げる一環として、三嶋大社になじみ深い源頼朝公の故事(こじ)にならって、旗挙げ行列が始められたのは、戦後間もない昭和23年(1948)です。 当時の夏祭りは、三島商工会議所の主催で「三島商工まつり」として行われており、旗挙げ行列を発案したのは、当時の伊藤三千夫専務理事と言われています。 毎年8月16日例大祭後に行われ、三嶋大社で戦勝祈願の出陣式の儀式を行います。その後、大社前から三島広小路駅までの大通りを、鎧兜(よろいかぶと)に身を固めた騎馬武者たちのパレードが行われますが、頼朝に扮するのは、そのときの商工会議所の会頭や市長、芸能人など有名人が起用され、人気となっています。その他、馬にまたがる武者や手綱(たづな)を引く徒兵(とへい)、籠(かご)に乗る女官などは、市民から公募してパレードを行っています。 |
韮山代官江川太郎左衛門が、管下の青年に洋式農兵調練(ちょうれん)を実施したのは、嘉永(かえい)3年(1850)正月のことでした。ある日、家臣の柏木総蔵が長崎から持ち帰った音律が、太郎左衛門の耳にとまりました。早速三弦(さんげん)音曲(おんぎょく)の「富士の白雪朝日で溶けて」の一節は、即席行進曲となって太郎左衛門のタクトにのって歌い始められました。その後、三島調練場(現在の三島市役所のところ)では、この「農兵節」を鼓笛隊(こてきたい)によって演奏させ、部隊の先頭に立て鼓舞したので、「農兵節」は全国津々浦々に流行し、行進曲民謡の先駆(せんく)をなすに至りました。
以上が、三島に古くから言い伝えられた「農兵節」のルーツですが、昭和30年(1955)以降発行された民謡関係の文献資料の多くは文久2年(1862)横浜で作られました「野毛節」が三島に伝わり、「農兵節」が作られたという説をとっています。
その後、昭和初期に三島民謡として「農兵節」を全国に広めた平井源太郎の功績によるものが絶大で、源太郎は「農兵節」の育ての祖といわれています。
平成10年(1998)、三島市文化芸術協会が発足し、その記念として、以降毎年三島夏祭りの中日に「連(れん)」(踊りのサークル)をくりだしています。同会は、平成12年(2000)開催の全国高校総合文化祭開会式に出演する県立三島南高等学校生徒への伝承(でんしょう)も手がけ、全国の若人への普及を手助けしています。
その伝統を受け継いでいるのは、三島市観光協会内に事務局をかまえる農兵節普及会です。昭和34年(1959)各集落の保存会を統合し、歌詞、踊曲(おどりきょく)の整理を行い、現在の正調(せいちょう)が完成しました。 普及活動としては、市内各地にブロック制を敷き、民謡教室や日舞会(にちぶかい)を会の中枢におくことにより、日々の研鑽(けんさん)がはかられ、三島市民生涯学習センターでの合同練習は広く市民に開放されています。
揃いの衣装にも意味があり、黒笠は江川公がナポレオンの戦闘帽を参考に、狩野川岸の植物で頑強(がんきょう)に作らせた郷土産物の韮山笠を意味し、浴衣(ゆかた)は富士の白雪が溶けて流れる情景を歌詞とともに染め上げ、帯は各所属流派を表しています 。
昭和50年代までは、各子供会や小中学校の運動会に午後一番の種目として、親子総参加で演舞したものです。
出典 『郷土資料館だより第57号』、『農兵節と平井源太郎』、『三島農兵節』
「農兵節」と大根 平井源太郎(ひらいげんたろう) 明治15年〜昭和15年 |
この後、源太郎は家業を捨て、街頭に立ち、生産農家と庶民のための「商道改革」を訴え始めました。今でいう流通革命を唱え、町議、県議に立候補しますが、三島町民には受け入れられず、落選を重ねた末、昭和12年(1937)町議となりました。
一方、矢田孝之と共に、三島民謡として「農兵節」を売り出しました。昭和9年(1934)には、コロンビアレコードから赤坂小梅の唄(うた)で発売し、「農兵節」は全国的に知れ渡っていきます。この宣伝の方法が独特で、幕末に三島で行われた農兵調練の故事(こじ)を基に、韮山笠、陣羽織姿で大刀、小刀を腰にさし、大阪や東京を闊歩(かっぽ)し、人目を引きました。
また、箱根ダイコンの宣伝も「農兵節」と一緒に行い、特に大阪市場の開拓に貢献しています。三島のまちおこしに奮闘(ふんとう)した人生でした。源太郎は昭和15年(1940)58歳で亡くなり、墓は川原ヶ谷願成寺にあります。
→ 富士の白雪碑
出典 『郷土資料館だより第57号』、『農兵節と平井源太郎』、
『三島農兵節』
みしまサンバは、昭和59年(1984)、三島夏祭りの当番町であった緑町が、山車の運行の一環として披露していた農兵節の踊りを多くの人々に親しんでもらおうと、サンバ調にアレンジし、若い人たちが気楽に踊ることができるように振り付けをした「農兵サンバ」が始まりです。
時の土屋町内会長と宮内副会長が高知市の「よさこい」を見学し、その躍動感(やくどうかん)に感動したのが「農兵サンバ」のきっかけで、当時衝撃的(しょうげきてき)な企画として多方面から注目され、翌年の夏まつりには日の出町が引き続き「農兵サンバ」を披露しました。
その後、三島夏まつり協賛会では、夏祭りの活性化をはかる目的で、全市対象にアンケート調査を行ったところ、「当番町以外に特別な踊りや音楽などの団体に入っていない限り、このお祭りには参加しにくい。誰でもが気楽に参加できるお祭りにしてもらいたい」との意見が多く寄せられました。
この意見を受け、協賛会で市民が気軽に参加できる企画はないかと検討した結果、緑町が作った「農兵サンバ」を市民の踊りとして使わせてもらったらどうかということになり、「みしまサンバ」として、平成元年(1989)に再デビューしました。
この踊りを支えてきた体育指導委員会、体育振興会、各自治会などの多くの人々の理解協力があって、今では、1,000人ほどの参加者がこのお祭りで踊ることを楽しみに、また、夏祭りの風物詩の1つに挙げられる企画となりました。
昔から中島にある八坂神社で、7月6日に行われるお天王さんの祭典に奉納されている太鼓は、1つの太鼓を相対で2人で打ちます。大場、梅名、函南町間宮と、この地域でお天王さんの祭りとともに伝承されてきた太鼓のリズムは、ほとんど同じように聞こえてきます。
昨今の和太鼓ブームもあり、愛好会(保存会)で「中島八坂太鼓」というオリジナル曲を創作し、夏祭りを始め、三島で行われる行事に参加し演奏を行っています。
「市文協」(注)に参加し、平成12年(2000)の会員数は20人ですが、今後は地域の子供たちに健全育成の一環として教え伝えていきたいそうです。
(注) 「三島市文化芸術協会」の略、和太鼓の部で紹介した「中島八坂太鼓」と、他に「さの字三島囃子」が参加しています。
足立安朗さん(中島) 談
三嶋大社は、島造りの神であり、山の神であり、農業や商業を守る神様ですが、漁業の神様でもあります。あまり知られていませんが、戦前は遠く九州や四国方面からも、航海の無事を祈って多くの人々が参拝に訪れていたそうです。特に、黒潮に乗ってカツオを追い、伊豆の漁港に入る漁民の信仰は厚かったようです。今でも毎年4月13日には、「水産の祭り」が静岡県下の漁業関係者を集め行われています。
三嶋大社の例大祭(れいたいさい)は、夏祭りの中日16日になっていますが、これは明治の新暦が施行された以降のようです。残された記録によると、文化13年(1816)の全町代表によって、三嶋大社の4月と11月の酉(とり)祭りの祭礼当番町を決めています。酉祭りは、通常月でも市(いち)の立つほどのにぎわいだったそうですから、頼朝が旗挙げをした8月17日は旧暦の酉祭りの日のことと思われます。8月16日と17日の違い以上に、新暦と旧暦の大きな違いもありますし、元々は、年2回春と秋の収穫を願い祝う日が大祭日だったようです。
また、終戦後、三嶋大社の夏祭りを「商工祭」や「水祭り」と称し、7月に実施しましたが、あまりにぎわいを示すことができませんでした。
目次へもどる | 次ページへ | 前ページへ | 表紙へもどる |