交通昭和初期の伊豆の交通地図 道箱根旧街道石畳 古くからの交通拠点として栄えてきた三島は、東海道、下田街道、佐野街道などの主要な道が交わり、恵まれた地の利は近代まで引き継(つ)がれてきました。しかし、昭和40年代以降の急激な車社会への移行、それに伴う道路整備によって、様相(ようそう)は変わってきており、21世紀を迎えた今、都市形成上の大きな問題点となってきています。 東海道(国道1号)国道1号線 三島の街を東西に走る東海道は、鎌倉時代から幾多(いくた)の変遷(へんせん)をとげながら現在に至っていますが、江戸時代から三嶋大社前を通過するルートでした。現在、旧道(現、川原ヶ谷〜新宿)と称するこのルートで市街へ入ると、大社大鳥居前で下田街道、西の角で佐野街道と交差、本町交差点では、御園松本道とJR三島駅方向ヘ分岐し、三島広小路駅前で旧道と新道の二股に分かれます。 車社会となり、街中を長距離トラックが通るなど交通量激増のため、昭和37年(1962)、三島バイパス(現、国道1号)が谷田から清水町八幡まで開通し、街中の車両の流れが整備されましたが、東名高速道路の開通によって、通称南二日町I.C.から東名高速道路I.C.への取り付け道路の分岐点まではいつも混雑しています。バイパスを箱根方面へ上がると、坂地区では昭和61年(1986)、三ッ谷バイパスが完成し、先行区間の塚原地区との連結により、住居区域との隔離(かくり)と拡幅高速化が図られました。また、山中より箱根峠県境まで拡幅曲線緩和工事が行われています。山間部の雨量規制区間は、三島函南境の山中農場前バス停から峠の県境までで、降り始めからの雨量が250oを超えると、地元車両も含めて通行規制されます。 下田街道・国道136号
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昭和45年頃の下田街道(国道136号) |
平成13年の下田街道(国道136号) |
丹那トンネルの開通を記念して、発行された「開通記念乗車券」と祝賀会参加者に送られていた乗車券引替え証 |
外環状 広域から集中発生する交通を都市圏の外部で受け持つ道路 |
・東駿河湾環状線 |
市街地環状市街地の骨格となる道路 |
・谷田幸原線、(仮)谷田新谷線、西間門新谷線、池田柊線 |
都心環状都市部の骨格となる道路 |
・高田上土狩線、下土狩文教線、東本町幸原線、中央幹線(国道1号) |
都心内環状 市中心部のゾーンシステム(注2)を支える道路 |
駅環状 小山三軒家線、高田上土狩線、下土狩文教線、東本町幸原線、 |
中央環状 小山三軒家線、(仮)南町寿町線、(仮)川原ヶ谷八幡線バイパス、東本町幸原線 |
(注1) | 人(パーソン)の動きを把握し、将来交通需要の予測を行う調査。 |
(注2) | 歩行者やバスなどの公共交通を優遇し、自動車利用の抑制や歩行者空間の確保 図るため、互いのゾーンへの自動車交通の行き帰りを禁じた交通システム。 |
太線 | 高規格道路 |
中線 | 主要幹線道路 |
細線 | 幹線道路 |
豆相鉄道は、明治31年(1898)三島駅(現、下土狩駅)から南條駅(現、伊豆長岡駅)が開通。続いて翌年に、路線を大仁駅まで延長し、そこを起点に奥伊豆への乗合馬車が発着し、後にバスの起点ともなりました。しかし、開業8年で伊豆鉄道に移譲(いじょう)、次いで明治45年(1912)駿豆電気鉄道に買収され、後に「駿豆鉄道」と改称しました。
大正時代に入ると観光客をはじめとした利用客が増え、輸送力向上のため、大正8年(1919)、三島〜大仁間で電車と蒸気機関車の併用運転が開始されました。そして、大正13年(1924)、大仁〜修善寺間の延長工事が完成しました。これにより、東海道本線の三島駅(現、下土狩駅)と中伊豆の中心である修善寺が1本で結ばれました。
昭和時代に入ると、ますます利用客が増えました。そのため、昭和8年(1933)、鉄道省所属の大型客車が、東京〜修善寺間に週末直通運転を開始しました。翌年、三島町民が待ちに待った丹那トンネルが貫通し、新三島駅開設に伴い、駿豆鉄道も新三島駅に乗り入れました。現在も、線路は三島広小路駅から三島駅に向って、西若町付近で大きくカーブしています。新三島駅ができる前は、ここから直進して下土狩駅に向かっていましたが、新三島駅ができたので、下土狩駅から西若町までの1,422mを廃止して、新三島駅に接続換えして現在の線となりました。
戦後、駿豆鉄道は沿線住民の足として、また、伊豆観光への足として急速に発達しました。その後、昭和32年(1957)に伊豆箱根鉄道に社名変更しました。現在、伊豆箱根鉄道駿豆線は、三島〜修善寺間の19.8qを結ぶ鉄道として、運行数は1日155本(2000年調べ)を数え、多くの通勤、通学客や観光客に利用されています。
伊豆箱根鉄道駿豆線 1日平均利用状況
駅 名 |
乗車人数 |
降車人数 |
三島駅 |
10,146 |
9,832 |
三島広小路駅 |
3,074 |
2,965 |
三島田町駅 |
1,900 |
1,857 |
三島二日町駅 |
1,858 |
1,874 |
大場駅 |
3,162 |
3,115 |
平成10年(1998)伊豆箱根鉄道駿豆線、三島田町駅前で、約100年前に作られた『豆相鉄道唱歌』が三島市少年少女合唱団により披露されました。この歌は1番から30番まであります。このイベントが好評だったため、平成13年(2001)5月「郷土の唄」としてCDが発売されました。
作曲者 静岡県師範(しはん)学校教諭 永井幸次
著作者 静岡県伊豆国三島町 三島高等小学校
発 行 明治33年(1900)10月25日
1 雲井を凌(しの)ぐ白妙(しろたえ)の
うしろに三島立出(たちい)づる
富士と富士見の滝つ瀬を
豆相線路の汽車の旅
2 おなじ名に聞く三島町
伊豆の都会(みやこ)と知られたり
常盤(ときわ)に見ゆる御邸宅(みやかた)は
志(し)げる小松の宮殿下
3 森陰(もりかげ)清(きよ)く奥まりて
事代主(ことしろぬし)の神います
いざや我(われ)等(ら)詣(もう)でこん
官幣大社(かんぺいたいしゃ)の宮どころ
4 神(かみ)祈(いの)らんと頼朝(よりとも)が
人目(ひとめ)を忍びて仮寝(かりね)せし
夢は消えても消え残る
名は間眠(まどろみ)の松の陰
5 軒を並べし町つづき
戸数(こすう)は二千と聞こえたり
富と栄えと便利とを
あつめてここに人は住む
JR三島駅を発着地点として、人口11万人余の地方都市としては、全国的に珍しく4社のバスが発着しています。昭和40年(1965)以降のモータリゼーションの進展(しんてん)や、物価と賃金の上昇に伴う運賃の上昇などにより、通勤、通学などの利用者が減少し、各社とも厳しい状況に追い込まれています。いつの間にか、車掌(しゃしょう)のいない運転士だけのワンマンバスが普通になり、各社は発車数の削減や始発、終発バス時刻の短縮などで対応してきました。しかし、そのことが、ますますバス利用者を減らす結果となっています。
大正年間(1912〜1926)に、箱根富士屋ホテルの輸送部門として開業し、沼津駅から箱根町への路線運行を始めました。その後、三島駅から丹那、軽井沢、田代など函南町方面への路線を開通しました。
平成10年(1998)のバス部門分社化により沼津箱根登山自動車となり、窓口業務は箱根登山観光が担当しており、小田急グループとして箱根観光の中心的輸送を担っています。
平成12年(2000)現在は小田急グループに属していますが、伊東市にある本社は大正6年(1917)に、沼津東海バスは昭和11年(1936)に開業しました。伊豆の観光は東海バスの歴史と言われるほど、開発の重責を担ってきました。
三島市内の路線も多く、大きな影響力を保ち続けています。また、旧国鉄の連絡運輸機関であったため、伊豆の主要停留所は「駅」と称され、今もそのなごりとして小荷物(チッキ)や大型手回り品の輸送が可能です。
静岡県初の電気鉄道として開業後、駿豆鉄道と合併(がっぺい)し、鉄道輸送の足りない部分を補うために、乗合バスを始めました。そのため、駅中心に放射状に伸びる路線は、通勤通学客の重要な足として地元に密着しています。三島〜沼津間を走った軌道線(きどうせん)に代わり、現在路線バスを運行しています。
また、平成元年(1989)に分社化した伊豆箱根自動車は、最初、貸切専門で出発しましたが、平成4年(1992)から路線バスの運行を始めました。三島市周辺では、JR三島駅から加茂、富士見台行きの路線や、駿豆線大場駅から東大場駅経由で錦が丘行きを運行しています。
市内の路線バス4社が、「100円バスせせらぎ号」の運行を平成12年(2000)12月1日からスタートさせました。市内の循環バスとして、西回りと東回りがあり、それぞれ1日11便を運行しています。
運行時間(両コースとも所要時間は30分)
●西回りコース 始発9:37 終発17:22
●東回りコース 始発9:40 終発17:39
人力車は、明治3年(1870)に日本で発明された乗り物です。三島では明治5年(1872)に世古六太夫(ろくだゆう)が免許を最初に取得し、5台所有していました。その後、7人が免許を取得、23台の人力車が三島の街を走っていました。初期の人力車は両輪の大きな荷車に屋根を付けたような形で、ガタゴトと音を立てて走っていたそうです。車輪が鉄製で、ゴム輪となったのは昭和になってからです。
現在では、祭りなどのときに人力車が走ることがあります。また、谷田に住む大工さんが子供用の小型人力車や御所車風(ごしょぐるまふう) 人力車など合計5台を手作りし、地域の子どもやお年寄りたちを楽しませています。
馬車は、人力車より数年遅れた明治13年(1880)に営業免許を受けて、三嶋大社前〜大場までの下田街道を客次第で随時(ずいじ)運行(うんこう)しました。当初は、馬車が走る道も悪く事故もあったので、利用者は少なかったようです。
しかし、明治22年(1889)東海道線の開通に伴って、佐野駅(現、裾野駅)を利用する人が多くなり、佐野〜三嶋大社前間に接続ルートを開始したところ、三嶋大社前〜大場間の乗客は創業当時の2倍になったそうです。この馬車はバス運行が始まった昭和10年(1935)までの約半世紀にわたって走り続けました。
また、郵便輸送専用の「郵便馬車」の駐車場が三島では今井坂下(現、川原ヶ谷)にあり、東西から来た郵便物はすべてこの駐車場で積み替えられ、各地の郵便局に逓送(ていそう)されました。今井坂の真立寺(しんりゅうじ)(現、川原ヶ谷)に殉職(じゅんしょく)した郵便馬丁(ばてい)の墓が残されています。
→ 真立寺
出典 『三島市誌 下巻』p.181 〜p.183
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