身近な美術作品三島市民文化会館、三島市民生涯学習センターなどの公共施設や三島のまちで、身近に鑑賞できる美術作品が数多くあります。三島市民文化会館ロビーなどには、三島の美術文化の振興のために活躍された方々、三島市主催、美術展審査員の作品が展示されています。
その他の作品
三島市民生涯学習センターせせらぎのある前庭には彫刻があり、建物のそれぞれの階には、絵画を中心とした作品が展示されています。前 庭
2 階
3 階
4 階
5 階
蓮 沼 川(宮さんの川)彫刻のある散歩みち
蓮沼川、別名・宮さんの川辺にはその他、ガス灯風の街灯、手作り水車、手作り漏剋(ろうこく)(飛鳥時代の水時計)が置かれています
鮮やかな構図と色彩の絵画を多く残し、また地域の文化振興にも大変貢献しました。『小浜池』『朝焼けの富士』は市の文化財になっています。 三島市芝本町の旧家に生まれ、旧制沼津中学より東京美術学校(現、東京芸術大学)日本画本科に3番の成績で入学。また3番で卒業し、卒業制作の作品は学校で買い上げられました。昭和3年(1928)、帝展(現、日展)に入選しました。 昭和11年(1936)より大妻女子専門学校(現、大妻女子大)で、教授を務めました。戦時中生徒たちが特攻兵器工場に動員され、引率長となったとき、将校から生徒の夜勤を命じられましたが、強くこれを拒否しました。その後夜間に工場は爆撃されたので結果として、生徒たちを守れたのです。 戦後は三島に戻り、沼津精華高校で教えながら、地域文化のために活躍しました。三島文化協会設立に参加し、五所平之助の後を受けて会長になり、 また昭和41年(1966)、佐野美術館の初代館長になりました。その後三島市民文化会議議長なども務め、「三島市市政功労者」表彰や「静岡県教育学術文化功労賞」を受賞しました。 独自の墨絵描法を考案し、多くの人たちに感動を率直に表現すること、スケッチしてから墨の濃淡で自由に描く方法を伝授しました。優れた後進たちがそれを継承し、描く楽しさを伝えています。 平成元年(1989)、90歳で永眠しました。
三島市出身。韮山高校卒業後、東京で和田金剛に師事し、彫刻の道へ。昭和42年(1967)日展に初入選以後、15回連続入選をしています。 西小学校、向山小学校、国立遺伝学研究所の肖像レリーフ、三島市役所、三島市民生涯学習センターの記念像など、市内随所で作品が見られます。 また市内のみならず、各地の寺などにも大作が収められています。神奈川県伊勢原市龍散寺(りゅうさんじ)にある「伊勢原聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)」は、制作に7年を費やした高さ3.5m直径2mのいちぼく一木彫りです。制作中は近所の子供たちが周りで遊び、またお年寄りが、未完成の像にお参りに来ました。「このことは精神的な支えと励みになり、彫り進んでいく瞬間がうれしく、自分が存在している幸福感を味わうことができた」と当時をふりかえります。 東京都大田区の萬福寺にある梶原景時(かじわらかげとき)像は、石橋山合戦で、源頼朝を助ける場面のものです。時代考証を重ね、自分の感性を注ぎ込んで像の具体案を決定しました。この像の写真は出版物に用いられ、代表的な景時像として認められています。 現在三島市在住。弟子は取らず1人で制作する毎日です。アトリエの片隅にある小さなレリーフは、母校韮山高校野球部の甲子園出場記念として、選手たちにプレゼントしたものです。もともとスポーツマンであった作者の、後輩に寄せる思いが伝わってきます。
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