郷土の文化財
三島暦(みしまごよみ)及び版木(はんぎ)、関係文書(もんじょ)
(市指定文化財、典籍(てんせき)(注))
三島暦は、旧暦を代表する暦で、歴史の古さは京都の版暦(はんれき)「大経師暦(だいきょうじこよみ)」より古く、都で「みしま」は暦の代名詞だったそうです。年代については確かではありませんが、貞観(じょうがん)年代(859〜877)以後のことと言われています。三嶋大社の社人であり、暦師の河合家が代々発行してきました。河合家の伝承では、祖先は山城国(やましろのくに)(現、京都府)賀茂より三島に移り住んだということです。
農業が経済の中心であった社会では、暦をもとにその年の政策が立てられ、政治を行う権力者にとって暦は重要なものでした。毎年の暦は支配下の暦師に特権を与え、作らせていました。
三島暦は、古くから仮名(かな)文字であったこと、木版刷りの品質が良く、細字の文字模様が美しいことなどから、旅の実用書、みやげとして好まれ、東海、関東、甲信越地方へと広く普及しました。また本陣宿泊の得意客への歳暮として、三島暦が使われたという古文書(こもんじょ)も残っています。
現存最古の三島暦は、足利(あしかが)学校(栃木県)所蔵の『周易(しゅうえき)古写本(こしゃぼん)』の表紙裏から発見された永享(えいきょう)9年(1437)の暦です。
明治5年(1872)、明治政府の太陽暦の採用で、旧暦の時代は終わりました。それにしても、都から遠く離れた三島で、京都や奈良と肩を並べるほどの科学、天文学の計算により暦を作っていたことは、三島人の誇りでもあります。
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三島暦 |
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三島暦 (巻き暦) |
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版木 |
(注) 書物、書籍
出典 『三島暦と日本の地方暦展』
三島茶碗
三島暦に模様が似ていることから、「三島茶碗」と呼ばれるようになりました。ほかの呼び名として、「三島」「こよみ(暦)」と、室町時代末期から桃山時代の茶会記に記されています。これは侘茶を創造しようとした茶人たちが、朝鮮半島李朝(りちょう)初期15〜16世紀)からもたらされた陶器を愛用し、その象嵌(ぞうがん)文様が三島暦の刷り版のかな文字に似ていたことから「三島手」「暦手」と名付けられたと言われています。
三島茶碗は、薄ねずみ色か灰茶色の素地に白化粧されていて、技法によって次のような種類に分類されます。1)暦手、三島手、花三島 2)掻落し手 3)彫三島 4)絵三島(鉄絵) 5)刷毛目(はけめ)三島 6)粉引三島などです。
かつては、茶の湯にいそしむ人々が愛用した三島茶碗も、現在では、湯のみ茶碗や酒器、花器、小鉢、大小皿、土鍋(どなべ)など食器全般にわたっています。
三島茶碗振興会
三島暦との関連で、三島茶碗を「三島の名物」として広めるため、市民有志により三島茶碗文化振興会が、平成11年(1999)に設立されました。
今日の三島茶碗
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この会は、三島茶碗の自在で素朴な味わいを大切にして、普段使いの、いわば暮らしの中の茶碗を復活させることを目的としています。これまで「静岡のお茶」「三島の湧水」とともに、三島茶碗を関連させ、さまざまな文化振興活動を行っています。
三四呂(みよろ)人形
(市指定文化財、工芸)
三四呂人形は、三島出身の人形作家、野口三四郎が創作した芸術人形です。作品の題材は異国情緒あふれるものから、日常の子供の遊びを扱ったもの、家族の愛情をあらわすもの、愛娘の桃里(ももり)をしのぶものなど、多くはふるさと三島と子供に求めています。和紙を張った、淡い彩色の温かみのある人形からは、古き良き時代の三島の雰囲気が感じられ、素朴で愛らしい童話の世界を作り出しています。
制作技法は日本の伝統的制作方法の張子から出発しました。題材のスケッチをしてから木型を彫刻して形を作ります。これに和紙を重ね張りします。三四呂人形の魅力である「軽み」「柔らかみ」は、張子であることや和紙を使用したことから表現できたものと思われます。後に紙塑(しそ)人形、石膏(せっこう)人形へと変化し、三四郎独特の表面に和紙をあしらった素朴(そぼく)で愛らしい人形が生み出されました。
作品そのものが紙と糊でできていることから、戦後の混乱期などを経て保存されている作品は数少なくなっています。現在、確認されているものは100点ほどといわれ、市内に残る24点(三島市郷土資料館、個人所蔵)は三島市文化財指定になっています。フランスやベルギーの美術館にも買い上げられており、海外でも高く評価されています。
『春日だんらん』昭和初年 |
愛娘桃里の名前を2つに分けて作った、桃子(左)と里子(右) |
出典『郷土館シリーズ 三四呂人形』郷土資料館
水辺興談(すいへんきょうだん)
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人形芸術院賞に輝いた代表作の1つです。裸ん坊の子供が2人、今清流で泳いできたばかり。捕った魚を手にして自慢話をしているのでしょう。
三四郎の生活を支えていたのは、何よりも清流あふれるふるさと三島にほかならなかったのです。 |
子供の情景を人形にした
野口三四郎
(のぐちさんしろう)
人形作家
明治34年〜昭和12年
(1901〜1937)
三島市大中島(現、本町)出身の人形作家です。明治34年(1901)生まれのため、その名が付きました。旧制韮山中学(現、県立韮山高校)中退後写真家を目指し、昭和3年(1928)東京三越の早撮り写真師となりました。翌年朝鮮京城博覧会に派遣されたのが生涯の大きな転機となりました。元来絵が得意だった三四郎は、朝鮮の風俗や風景のスケッチを多数残しました。初期作品の『官妓(かんぎ)』(朝鮮で官吏に仕えた女)などは、このころのものだと思われます。
帰国後、三四郎は張子人形と出合います。人形制作に没頭し、このころ長男冬樹が生まれます。兄の援助で野口写真館を開業したものの、厳しい生活の中、昭和9年(1934)妻しげを、翌年娘桃里を3歳で亡くします。三四郎の嘆きは深く、悲しみの中でますます人形制作に没頭しました。昭和11年(1936)第1回総合人形芸術展に出品した『水辺興談(すいへんきょうだん)』が最高賞の人形芸術院賞に輝きました。しかしこの直後結核を発病、三島に帰郷して療養しますが、翌12年(1937)37歳の若さで世を去りました。
三島宿風俗絵屏風(みしまじゅくふうぞくえびょうぶ)
(市指定文化財、絵画)
三島宿風俗絵屏風は江戸時代の三島宿で四季の移り変わりとともに、そこに暮らす人々の生活が描かれ、当時の街道筋のにぎわう様子を知ることができます。
この絵屏風は左右6曲1双(1組)となっており、右の半双には雪景色の富士山を中心に、箱根西山麓を背景に東海道を行き交う旅人と馬の様子や田畑で農作業をする人々が見られます。
左の半双は、桜の花が満開の三嶋大社を中心に、問屋場、本陣、広小路の火除け土手、時の鐘、千貫樋(せんがんどい)などの宿場の景観が詳しく描かれています。
作者の小沼満英の経歴は不明ですが、浮世絵師ではないかと推測されます。
この絵屏風は三島信用金庫が所蔵しています。
出典 『三島信用金庫記』、『三島市誌 増補』p1072
月島(つきしま)の月
(市指定文化財、絵画)
東京、隅田川河口の落日の情趣を描いた第12回白馬会展の入選作で、まだ22歳であった栗原忠二の出世作です。画面中央の太陽は赤々と空を染め、水面に光を投げてまさに没しようとするところで、太陽の上に月が浮かんでいます。燃えるような若々しい情感があふれた傑作です。
この『月島の月』は母校の三島尋常小学校(現、市立南小学校)に寄贈されました。その後郷土資料館に所蔵されていますが、残念ながら一般公開はされていません。 |
世界的な画家
栗原 忠二(くりはらちゅうじ)
洋画家
明治19年〜昭和11年
(1886〜1936) |
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三島出身。韮山中学校(現、韮山高校)から中央大学に進み、明治40年(1907)東京美術学校(現、東京芸術大学)に入学。イギリスの風景画家ターナーに傾倒し、翌々年の第12回白馬会展にターナーを意識し描いた『月島の月』が入選しました。 明治45年(1912)渡英し、ロンドンで巨匠フランク・ブランギンに師事しました。後に英国王立美術家協会から準会員の栄誉を与えられました。
大正14年(1925)、大正皇后陛下に『雨後の牧場』を献上し、英国画派の正統を伝える異色の画人として注目されました。
昭和4年(1929)には第一美術協会を創立。昭和11年(1936)ブランギンの壁画に基づく『歓楽の港』を出品した直後、50歳の若さで亡くなりました。墓は林光寺にあります。
出典 『郷土館シリーズ 栗原忠二』三島市郷土資料館
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